第1回 行政はよく聞く言葉だけど、一体どのようなものなのか
行政法というと、私が学部生であった1980年代後半から1990年代前半にかけては法学部の3年生と4年生の科目であった。現在、少なくとも行政作用法総論を扱う科目(「行政法1」というような名称がつけられていることが多い)は2年生から履修できる、という大学が多いであろう。おそらく、1年生のうちに憲法、民法(総則など)、刑法(総論)を履修し、基礎を習得した学生に向けた科目と位置づけられているものと思われる。
すなわち、行政法は応用科目の一つである※。実際にそうなのであって、私は、講義の際、とくに初回に、1年生の時に履修しているはずの憲法、民法(最低限は総則)および刑法(同じく、最低限は総則)の復習をよくしておくように言う。
※原田大樹『例解行政法』(2013年、東京大学出版会)xiv頁は「行政法は法律基礎科目に含まれて入るものの、憲法・民法・刑法・訴訟法といった科目の内容の理解を前提に議論が展開する」と述べる。現在の司法試験では行政法が必修科目の一つとなっているために「法律基礎科目」に含めるのであろう。しかし、むしろ応用科目と言うべきであることについては、引用文からでも明らかである。2006年から実施されている(新)司法試験の必修科目で、いわゆる六法に含まれないものは行政法のみであるが、旧司法試験の時代には選択科目の一つであったし、選択科目から外されていた時期もあった。
このように記すと、行政法は難しいのかもしれない、と思われるかもしれない。たしかに、そのような部分はある。しかし、実はスタートラインだけを考えるのであれば、憲法や刑法などよりも日常生活に近い。というより、日常生活そのものが行政法の学習を始める際の格好の題材である。もしかしたら、これは誰かが残した言葉なのかもしれないが、「どの分野であれ、学問に手を染めるのであれば、まずは自らの足下を見つめていただきたい」。自らの生活を、改めて見つめていただきたい。
よく、「つまらない日常生活」とか「退屈な日常生活」などと言われるが、本当にそうであろうか。「つまらない」、「退屈」、「平凡」などと多くの人に思われていることこそ、実は社会が機能していることを意味する、と考えるべきであるし、何故そのように考えられないのかが不思議である。安定した社会を創り出すことがいかに大変な努力を必要とするかについては、目を国際情勢に向ければすぐにわかるし、ましてや維持することには、強大な国家権力、高度な行政技術を必要とする。日常生活が成り立っているのは、実は驚異的なことなのである。詳しくは記さないが、私が以上のことを改めて意識したのは、2011年3月11日の14時46分に発生した大事件を経験してからである。
日常生活において、上水道、下水道、電気、ガスを使う。生きている限りはごみが出るし、勤務先から給料を受け取る際には所得税などが天引きされている(源泉徴収)。私は、現在、通勤のためなどに東急田園都市線を利用しているから、運賃を払っている。一方で車を持っているから、自動車運転免許証を持っているし、自動車重量税なども払っている。少しばかり例を出したが、これらは全て、行政と関係のある事柄である。いや、日常生活において、我々は、直接的であれ間接的であれ、行政、および行政法と無関係ではいられない。水道法(上水道)、下水道法、電気事業法、ガス事業法、廃棄物の処理及び清掃に関する法律、所得税法、国税通則法、鉄道営業法、道路交通法、などである。この他、出生届、婚姻届、離婚届、死亡届、義務教育、マイホーム新築、都市計画、災害対策、競馬、パチンコ、など、例を挙げたらきりがない。勿論、警察や消防などの活動も忘れてはならない。直接的か間接的かを問わないならば、現代社会において、行政と無縁の生活を過ごす日は皆無と言ってよいだろう。
このことを、阿部泰隆教授は「犬、いや、君も歩けば行政法に当たる」と表現されている。これは、『事例解説行政法』(1987年、日本評論社)に掲載され、『行政の法システム(上)』〔新版〕(1997年、有斐閣)E頁(初版はしがきの再録)にも掲載されている言葉である。
▲ここに、電気、ガス、鉄道料金などが並べられることを奇異に感じる方もおられよう。民間企業が運営してはいるが、電力会社は「公企業」の一種とされ、本来ならば国家自身が経営主体となるべきもの、と考えられていたので、特許として経営権を私人に与え、公法上の特権を与える一方、事業遂行の義務を課し、事業に対して特別の監督を加える、という方法(あるいは考え方。認可制)を採用している。ガス事業や鉄道料金についても同様に考えてよい。
また、金沢地判昭和50年12月12日判例時報823号90頁などは、競馬、競輪などの「公営競技」も「社会福祉的目的をもつ行政作用」であると述べている。もっとも、公営競技による収益が学校の新設などに役立っていたことは否定できないが、公営競技そのものが「社会福祉的目的をもつ行政作用」と言いうるかどうかは問題である。
ドイツの著名な行政法学者フォルストホフ(Ernst Forsthoff, 1902-1974)は、行政について次のように述べている。「国家は、警察を通じて公共の安全および秩序に配慮し、租税を徴収して(その徴収した)資金を然るべき利用に供し、道路および運河を設置して道路および運河における交通を規律し、職業安定所を通じて労働力を分配して労働力に社会保障において保護および配慮を与え、学校、大学、博物館および劇場を経営し、エネルギー経済をコントロールし、社会的に重要な組織および企業に国家の財政上の援助およびその他の援助を与え、自身の銀行を通じて貨幣制度の担い手となる。――こうした機能全てにおいて、国家は行政(権)を行使する」※。基本的な事情は、日本においても同じである。
※Ernst Forsthoff, Lehrbuch des Verwaltungsrechts, Band 1, Allgemeiner Teil, 10. Auflage, 1973, S. 1f.
また、新聞、テレビやラジオのニュース、さらにインターネットなどを見てみるならば、毎日、どこかで行政の責任あるいは公務員自身の責任が問われていることがわかる。いかなることであろうが、行政の活動について報道がなされない日はないであろう。
さて、こうしてみると行政というものが我々に身近なものであるということが、多少なりともわかっていただけたと思う。中学校や高校で、社会科の授業で立法、司法、行政という言葉が登場し、それぞれどのようなものであるのかを、多少とも勉強したのではなかろうか。しかし、ここで立ち止まると、行政というものについて「そもそも一体何なのか」という疑問が出てくるかもしれない。
上の例を御覧いただければおわかりのように、行政は、社会生活の広い範囲に関係する。すなわち、多様性を有する。一度、市町村の役場か都道府県庁に行かれるとよい。よくわかるはずである。我々の生活と密接な関係を有するだけに、行政法とされる法律の数も範囲も膨大である。そればかりではなく、行政法は、実に多様な分野を、直接的であれ間接的であれ、規律している。
これを裏返して言うならば、行政は、警察、教育、社会保障・社会福祉など様々な外観をとるにもかかわらず、一つの概念にまとめられている。また、人事も行政に含まれる。すなわち、国家公務員法、地方公務員法など、公務員の身分に関する法律も行政法に含まれる。そのため、行政とは一体何かが問題となる。
行政法の教科書を開くと、最初に行政の定義に関する記述がなされていることが多い※。日本語の「行政」という言葉は、英語・フランス語のadministration、ドイツ語のVerwaltungからの訳であるが、これらの言葉は、元々、管理、経営という意味を持っている。最近よく用いられるgovernanceが統治などを意味するのに対し、administrationやVerwaltungは、国家や地方公共団体の日常的な業務の運営や管理、さらにはこれらを行う事業体の経営をも意味することになる。
※もっとも、最近の行政法学の教科書には、行政の定義に触れていないものも少なくない。
しかし、日本国憲法など世界各国の憲法典を概観すると、国家や地方公共団体の業務の運営や管理、そして経営の全てを行政が行っている訳ではない、ということがわかる。例えば、いかなる業務を国家が行うべきであるか、いかなる経営方針を採るべきかについての基本原則などは、法律として示されることになるが、これは行政ではなく、立法機能を担う議会(国会)が制定するものとされている。また、社会においては、法律の適用などをめぐって、人々が有する権利や利益に関する紛争が生じ、これを解決しなければならないという場面が多くなる。そのような紛争の解決も国家や地方公共団体の業務であると考えるべきであるが、その業務、少なくとも最終的な解決については司法機能を担う裁判所が行うものとされている。
このように考えると、行政は、国家や地方公共団体の業務の運営や管理、そして経営の全てを指すものではない、ということになる。近代立憲国家は、ロック(John Locke, 1632〜1704)を嚆矢とし、モンテスキュー(Charles Louis de Secontat de la Brède et de Montesquieu, 1689〜1755)を大成者とする権力分立主義を採用するため、運営や管理、経営の基本的な方針の策定などを立法権に、社会において生じる紛争の最終的な解決を司法権に担当させるのである。日本も、明治時代の大日本帝国憲法において、決して十分と言えないが権力分立主義を採用しており(但し、当時としては急進的な憲法であったとも評価されている)、昭和時代の日本国憲法は、権力分立主義をより徹底したものとしている。
ここで日本国憲法を参照してみる。憲法は、国家の国家作用(国家の活動)を、立法・司法・行政に分け(三権分立)、立法を国会に(第41条)、司法を最高裁判所以下の裁判所に(第76条)、行政を(第一次的に、かつ最終的に)内閣に担当させる(第65条)。また、都道府県および市町村(地方自治法第1条の3第2項にいう普通地方公共団体)は司法を担当しない、従って、都道府県および市町村は裁判所を持たない。そのため、都道府県および市町村の作用は立法および行政となる。立法は議会に(地方自治法第96条第1項第1号を参照)、行政は都道府県知事または市町村長(同第147条以下を参照)を筆頭に、地方自治法第161条以下に規定される副知事(都道府県)・副市町村長(市町村)、地方自治法第168条以下に規定される会計責任者、その他の執行機関によって担われることになる。但し、行政法学においては、伝統的に、地方公共団体の作用を、性質の如何に関わらず行政として扱うことが多い。
このことから、日本において、立法とは国会(立法府)が行う活動、司法とは裁判所(司法府)が行う活動、行政とは内閣(行政府)が行う活動である(但し、憲法第90条に注意!)、と言うことができる。
しかし、これは、憲法がそのように定めているから、組織上このようになるというだけのことであり、形式的な説明で終わっている。具体的な中身については何も説明していないに等しい。適切な表現であるか否かはわからないが、器の問題と言いうる。このような説明で述べられる概念を、行政法学などにおいては、それぞれ、形式的な意味における立法、形式的な意味における司法、形式的な意味における行政という。
形式的な意味における立法・司法・行政の概念では、それぞれの具体的な中身、すなわち、実質的な意味における立法、実質的な意味における司法、実質的な意味における行政を説明することができない場合がある。
例えば、憲法第55条は「両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する」と、また、第64条第1項は「国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける」と規定する。このことは、例外的ながら、立法機関であるはずの国会が司法機関である裁判所の機能を有する場合があることを示している。
また、第73条第6号は内閣の政令制定権を規定し、第77条第1項は最高裁判所の規則制定権を規定する。これらは、行政機関であるはずの内閣および司法機関であるはずの最高裁判所が立法機関としての機能をも有することを意味する。さらに、第80条は、最高裁判所が高等裁判所以下の下級裁判所の裁判官に関して実質的な人事権を有することを規定する。これは、最高裁判所に人事行政権が与えられていることを意味する。器が立法であるから中身が全て立法であるとは限らないのである。
このようにみると、形式的な意味における立法・行政・司法と、実質的な意味における立法・行政・司法は、重なり合う部分が多いものの、完全に一致する訳ではないことがわかる。憲法が、国家機関の権力均衡を重視して役割の分担を定めているため、形式的な意味と実質的な意味とが一致しないのは、むしろ当然のことである。
そこで、中身の問題、すなわち、実質的な立法・司法・行政とはそれぞれ何かを考える。行政とは一体何かという問題に答えるためには、まず、立法および司法とは何かという問題に対して答えておく必要がある。日本の公法学(憲法学、行政法学)は、明治時代以来、現在に至るまで、ドイツ公法学の影響を強く受けている。そのためもあって、立法、行政および司法のそれぞれについて、形式的な意味のものと実質的な意味のものとに分け、様々な国家作用を考察する際の前提としている。
まず、立法について考えてみる。形式的な意味における立法とは、上に記したとおりであるが、さらに記すならば、国法の一形式である法律を定立する機能のことである。ここでは、法律に含まれる規範の中身を一切問わない。しかし、これでは憲法第41条の解釈に際して不都合が生じる。国会は唯一の立法機関であるとされるが、形式的な意味における立法の概念を採用すると、国会は法律という法を定める機関であるということになり、法律で最低限として何を定めるべきかという問いには答えられない。また、法律は、国法の一形式である法律を定める機能を有する国会が定立する法であるということになり、同義反復の説明で終わることになる。そこで、憲法学においては、第41条にいう立法を実質的な意味の立法と解するのである。
実質的な意味における立法は、法律、政令などというような法の形式ではなく、「法規」(Rechtssatz)という特定の内容を有する法規範を定立する機能をいい、現在では、およそ一般的・抽象的な法規範全てを定立する機能であるとされている。
◆重要:「法規」の意味
ここにいう「法規」(鍵括弧を付けている点に注意!)は、狭義の法規のことである。
元々、ドイツ公法学(憲法学、行政法学などをいう)において、国民の一般人民の権利・義務に関係する法規範、もう少し丁寧に記すと「国民の権利を直接に制約し、または義務を課する法規範」であると理解されていた。このような性質を有する法規範の定立が国民の代表機関である議会によってなされなければならないとする点において、国民主権主義的要素の確保が図られたのであるが、他方、国民の権利や自由に直接的な関係を有しない法規範は「法規」とされないため、議会の関与を必要としないという考え方にも結びついた。或る種の立憲君主制には適合する概念であるが、日本国憲法のような国民主権原理からすれば不十分である。
そこで、第二次世界大戦後は、およそ一般的・抽象的な法規範であれば「国民の権利を直接に制約し、または義務を課する法規範」でなくとも「法規」であると解されるようになった。裁判の判決や行政行為は個別的・具体的なものであるため、「法規」と区別される。憲法第41条にいう「唯一の立法機関」を実質的なものにする方向で解釈を行うならば、一般的・抽象的な法規範と捉えるほうが範囲が広くなり、妥当である。
なお、法規という概念は多義的である。最広義においては、法規範一般を指す。広義においては、成文の法令を指す。
次に、実質的な意味における司法とは、「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」であるとされている※。言い換えると、法律上の争訟、すなわち法律上の関係(権利義務)に関する争いごとを裁断する行為のことである※※。
※芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』〔第六版〕(2015年、岩波書店)336頁による。
※※例えば、AがBに1000万円を貸したがBが返さない場合、BはAに金を返す義務を果たしていない場合を考えてみる。これは、見方を変えればAがBから(相当の利息も付いた上で)金を返してもらう権利を有するが、まだその権利が実現されていないことでもある。この場合に、Aは裁判所に、BがAに金を返すようにという訴えを提起することになる(民事訴訟の典型的な例)。
また、CがDを殺し、警察・検察に逮捕され、検察官が訴えを提起すると(刑事訴訟法第247条)、裁判所が、Cが有罪であるか否かを判断し、有罪であるとすればCがどの程度の刑罰を受けるべきかを判断する(刑事訴訟の典型的な例)。従って、この場合には権利義務の関係ではないが、Cの法律上の関係についての問題を扱う、と言いうる。もっとも、CがDを殺したということは、CがDの権利を完全に否定したということであるから、その意味においてはCとDとの権利関係が存在しない訳ではない。また、犯罪は、個人に対するものばかりではなく、社会全体に対するもの、国家に対するものも存在するが、その場合であっても、社会全体の利益や国家の利益を損なうのであるから、社会全体に対する法律上の関係、国家に対する法律上の関係が問題となる。
これに対し、実質的な意味における行政については、見解が分かれている。これは行政の多様性に由来する。行政権がなすべき作用には、警察、教育、社会保障・社会福祉などがあって多様であるし、人事も行政の重要な一分野である。それにもかかわらず、行政という一つの概念にまとめられているため、定義が困難であると考えられるのである。
現在の日本においては、こうした困難性を承知の上で積極的な定義づけを試みる説(積極説)もいくつか存在するが、むしろ、困難性の故に、実質的な意味の行政について正面から定義づけることを断念する消極説が支配的である。この説は、立法および司法を上記のように定義した上で、国家の全ての作用(活動、機能)の全体から立法と司法を差し引けば、実質的な意味における行政が残ると考えるため、控除説ともいう。
消極説に対して、これでは定義にならないという批判もある。たしかに、このような定義には、行政の具体的な内容や特性が明らかにされないという難点がある。しかし、立法・司法・行政のいずれも、封建制から絶対王政を経て立憲君主制、さらに共和制への発展という歴史に応ずる形で成立した概念であり、このような定義のほうが、幅広い行政を一つのものとして捉えやすいという大きな利点がある。行政は、規制をすることもあるし、逆に給付をすることもある。権力的な手段を使うこともあるし、非権力的な手段を使うこともある。
また、もっと積極的に行政を定義しようとする試み(積極説)もあるが、成功してはいない。たとえば、積極説と解されている定義の中には、消極説と大差がないものも見受けられる。
ドイツ行政法学においては、積極説のほうが有力であるようであるが、定義に関する記述には、消極説と大差がないものも見受けられる。事情は日本においても同じである。フォルストホフは、先程引用した文の前に、「行政は、記述はされうるが定義はされえない、ということが行政の特徴において存在する。行政の個々の仕事は多様性において広がっているが、その多様性は、統一的な形態を無視する」と述べる※。
※Forsthoff, a. a. O., S. 1f.
さらに、積極説は実益に乏しい。例えば、実質的な意味における行政を積極的にて意義づけようとしなければ、行政行為、行政指導、行政契約などというような個別的な概念が成立しない訳ではない※。逆に言えば、積極説を採る論者の説を概観してみても、積極的な定義づけが個別的概念に直結していない、あるいは、個別的概念の説明などに際して、実質的な行政に関する積極的な定義づけが生かされていないという問題点がある。積極説を採る論者は、これをどのように考えているのであろうか。
※塩野宏『行政法T』〔第六版〕(2015年、有斐閣)5頁を参照。なお、ドイツ行政法学において実質的な意味における行政の定義づけが盛んに試みられるのは、おそらく、行政裁判所制度の存在によるものと思われる。しかし、仮に行政裁判所制度が日本に存在したとしても、そのことと実質的な意味における行政の定義づけの必要性の有無とは別の問題であろう。
以上のことから、私は、この講義ノートにおいて消極説(控除説)を採用することとしたい。
なお、勿論、行政の活動を分類することは可能である。これにも様々なものがあるが、行政手続法や行政事件訴訟法などとの関連、さらに国民の権利義務との関連という点において、規制行政(侵害行政という表現もある)と給付行政との大別が重要である(正確ではないが、人権論にいう自由権と社会権との区別に、ほぼ対応している)。
(2015年11月11日掲載)
(2017年12月20日修正)
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