第3回 憲法と行政法
1.憲法を具体化するものとしての行政法という理念
行政法の成文法源とされるものは、憲法、条約、法律、命令、条例、地方公共団体の長の規則である。このうち、憲法は国家の基本的な法であり、かつ、最高法規であるため、行政法の法源としても最高の地位を占めるものである。そればかりでなく、少なくとも立憲主義の理念に即して考えるならば、「行政および行政法は本質的にその時代の憲法によって決定される」のであり、行政法は憲法を具体化するものでなければならないのである※。
※引用は、Hartmut Maurer, Allgemeines Verwaltungsrecht, 18. Auflage, 2011, §2 Rn.1からのもので、私が訳した(下線部は、原文における斜体字による強調箇所である)。行政法が憲法を具体化するものでなければならないということは、ドイツ連邦行政裁判所長官であったヴェルナー(Fritz Werner)の論文「具体化された憲法としての行政法」(Verwaltungsrecht als konkretisiertes Verfassungsrecht, DVBl. 1959, 527)によって述べられ、ドイツでは一般的に承認されている。
2.国民主権の原理
日本国憲法は、前文および第1条において国民主権原理を明示する。これを具現化するために、例えば権力分立主義が採用されるのである。また、国民主権原理を実現するためには、主権者たる国民の全体に、国の情報、端的に言えば政府が保有する情報が共有され、少なくとも常に入手が可能な状態になっていなければならないはずである
※。※後の回において詳しく述べたいが、日本の憲法学や行政法学における情報公開請求権に関する議論は、国民原理主義の具体化という側面においてあまりに不十分である。櫻井敬子・橋本博之『現代行政法』〔第2版〕(2006年、有斐閣)14頁の記述も、情報提供に留まっている。理念であるとしたらあまりに不十分であろう。その点において、山崎正『住民自治と行政改革』(2000年、勁草書房)56頁注(4)および132頁の記述は示唆に富む。拙稿「大分県における情報公開(1)―大分地方裁判所平成12年4月3日判決の評釈を中心に―」大分大学教育福祉科学部研究紀要第22巻第2号(2000年)427頁を参照。なお、櫻井敬子・橋本博之『行政法』〔第4版〕(2013年、弘文堂)230頁を参照。
国民主権原理については、既に憲法学の講義などにおいて扱われているはずである。以下、憲法の復習を兼ねるという意味合いを込め、重複することを承知の上で説明を行う。
国民主権と民主主義とは、一般的に同義の言葉として扱われる。しかし、国民主権は法律学的な概念であり、主権の所在を示すものであるのに対し、民主主義は、政治の在り方についての政治思想的な概念である。但し、国民主権は、民主主義の中に含まれると解することもできる※。
※橋本公亘『日本国憲法』〔改訂版〕(1988年、有斐閣)85頁を参照。
民主主義は、個人の尊厳を最高の価値とする。そのため、国家における「支配者と被支配者との自同性(Identitaet)」が要求されることになる。これが実現されなければ、国民主権の意味がないということになる。
国民、主権のいずれも、一般的に理解しうる語であり、日本国憲法においても用いられる。しかし、実際には、条文により意味を異にする。この点に注意しなければならない。国民主権という場合の主権は、国の最高の意思、国の政治の在り方を最終的に決定する権力、換言すれば最高決定権を意味する。日本国憲法は、このような最高決定権を国民が行使するということを宣言しているのである※。
※櫻井敬子・橋本博之『現代行政法』〔第2版〕15頁は「憲法のいう国民主権は、第一義的には、国政の運営が国民の名において行われることを意味」すると述べているが、これは説明としても弱く、理念に関する説明として十分なものとは言えない。
最高決定権は、憲法の制定や改正に関して、その力を最大限に発揮すべきものとされている、と考えることができる。国民主権は、元々、憲法制定権力が国民に帰属することを意味する。憲法制定権力の発動により実定憲法が制定されると、合法性の原理となり、制度化された上で、権力性と正当性とに分解することとなる。ここで、国民主権の権力性とは、国の政治の在り方を最終的に決定する権力を国民自身が行使する、ということを意味する。また、国民主権の正当性とは、国家の権力行使を正当づける究極的な権威が国民に存する、ということを意味する。
ここまで、国民主権原理について解説を行ってきたが、日本国憲法の前文において述べられているように、第15条第1項、第79条第2項、第95条および第96条の場合を除き、常に国民が直接的に国政に関する権限を行使することが予定されているのではなく、「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」することが前提とされている。すなわち、直接民主制ではなく、間接民主制(議会民主制)が基本原則となっているのである。
もっとも、憲法の諸規定の解釈、そして歴史などをみれば明らかであるように、元々、国民主権原理は君主主権への対抗概念であると同時に、近代立憲国家においては市民階級の利益を維持するための機能を有していた。国民とは言うが、基本的に有産階級に限定されていたのである。その後、労働者階級の台頭などにより、文字通り国民全体(とくに貧困者層)の生存権を確保することが国家の命題となり、当初は治安対策の一環として社会保障などを充実させるなど、労働問題に取り組まざるをえなくなると、同質の市民のみを代表する議会による対処などが困難になり、行政権の拡大につながることになる。或る意味において、国民主権原理と現実との乖離はこの時点から始まったとも言える。
また、日本の場合、イギリスやフランスなどと異なり、元々市民階級が存在せず※、明治維新も武士階級による王政復古であったため、市民あるいは商人の政治力は強化されなかった。イギリスやフランスなどにおいては議会の権限が強かったが、大日本帝国憲法は、天皇の権限を非常に強大なものとしており、その下で、議会に比して行政権の範囲は当初から広かった。そもそも、大日本帝国憲法が権力分立主義を採用すると言っても、三権は結局のところ天皇に帰属していた。議会の立法権は制約されていたし、天皇は別に立法権を有していた。しかも、帝国議会成立以前から超然内閣制(内閣制度そのものが憲法上の制度でなかったことに注意!)が存在し、当初から議会が官僚制に対抗しうるほどの力を持っていたかどうかは疑わしい。日本国憲法制定以後も、官僚制の実力はほとんど影響を受けず、むしろ拡大している。日本においては、元々、国民主権原理と現実との乖離が激しくなる要因が存在していたのである。これが社会の発展、そして国民主権原理の普及とともに強く自覚されるようになったと考えられるであろう。
※あるいは士農工商のうちの商人階級が市民階級に相当すると考えることもできるが、おそらくは違うものであろう。
日本国憲法および地方自治法においては、元々、国政よりも地方自治の側面において直接民主制的な要素が多く盛り込まれている(地方自治法第12条、第13条および第74条以下を参照)。地方公共団体の長などに対する解職請求(リコール、国民罷免)、条例改廃請求権(イニシアティヴ、国民発案)、そして、原子力発電所設置や市町村合併などの重要問題において行われる住民投票制度(レファレンダム、国民表決)が行われるのは、単に直接民主制の現われというだけでなく、国民主権原理の具現化としての意味をも有する。
但し、現在の法制度において、国民投票や住民投票は、憲法改正を除き、投票の結果が立法者を拘束することが予定されていない。これは、イニシアティヴについても妥当する。理由としては、憲法自体が議会制民主主義を原則としており、直接民主制はむしろ例外的に位置づけられることがあげられる(例外と記すと誤りになるのかもしれないが)。
3.権力分立主義
論理的な帰結というよりは歴史的・経験的な事実による帰納的現象に属することとも思われるが、国民主権原理を生かすためには、第一に権力分立主義が採用されていなければならない。この権力分立主義も既に憲法学の講義などにおいて扱われているはずであるが、ここで述べておくこととする。
日本国憲法には、権力分立を直接的に宣言する条文がない。しかし、第41条において「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」とされ、第65条において「行政権は、内閣に属する」とされ、さらに第76条第1項において「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」とされていることから、日本国憲法が権力分立主義を採用することは明らかである。すなわち、日本国憲法は、国家の統治権の作用を、立法、行政、司法に分割し、それらを相互に独立する別個の機関にそれぞれ担当させているのである。なお、権力分立主義は多分に歴史的な概念であることには、注意が必要である。
日本国憲法の規定には示されていないが、権力分立主義は、国や時代、そして論者によって多少の違いがあるものの、元々、国家権力の諸作用を主に機能面から複数の国家機関に分配し、それぞれに担当させることによって均衡を保つという考え方である。出現形態が国によって異なるため、内容も異なるのであるが、一般的に認められる特質として4つが指摘される。
(1)自由主義:何故、単一不可分であるはずの国家権力を、三つの異なる国家機関に分割して担当させるのか。それは、一つに集中させると、権力の濫用を生じさせるからである。権力が集中すれば、国民の権利や自由はたやすく蹂躪される。このことは、歴史が証明してくれる。
(2)消極主義:権力を分割するだけでは不十分であるが、実際の問題として、三権は、時として相互に摩擦することがある。この摩擦を、権力分立主義は意図的に生じさせる、あるいは利用する。このことによって、一つの権力が暴走することを防ごうとするのである。
(3)懐疑主義:アメリカ合衆国の独立宣言の主たる起草者にして第3代大統領であったジェファーソン(Thomas Jefferson. 1743-1826)は、自由な政府が国民の猜疑によって生まれるという趣旨のことを述べている。そこには、政府に対する国民の信頼という考え方はない。こうした、権力に対する悲観主義が、権力分立主義の根底にあることは否定できない。言わば、政府性悪説である(とすると、国民性善説であるのか。これは不明である)。
(4)政治的中立主義:権力分立主義は、一般的に民主主義の前提と考えられている。しかし、実際には、立憲君主制という形態が存在することから明らかであるように、権力分立主義は君主制とも結合する。イギリスはこの典型であるし、現在でもヨーロッパに残る王国(オランダ、スウェーデン、ノルウェー、ベルギー、ルクセンブルク、スペインなど)も、立憲君主制を採り、権力分立主義を採用するのである。逆に、君主主義を採らない国家(共和制)であっても、権力分立制を採用しない国家もある(ナチス期のドイツ、旧ソ連など)。結局、権力分立主義は、君主制を採るか民主制を採るかという単純なものではなく、人権保障を中核に据えるか否かの問題と関係し、人権保障を担保するための一手段であるといいうるのである。
しかし、前述のように、19世紀後半から、第4階級とも言われる労働者階級の発展に伴い、それまで市民階級の利益を実現するための機関であった立法府が変質せざるをえなくなったことから、権力分立主義の変容がみられることとなる。階級対立を防ぐため、または解決するための機能は、従来の警察や国防のみでは到底カヴァーできるものではなく、それ以外の新しいものを必要とした。それまでの形式的平等から実質的平等への変化が期待されたのである。しかし、議会には、こうしたものを生み出すことができなくなった。20世紀、とくに第一次世界大戦後、上記の機能はさらに拡大し、積極国家・社会国家が要請されるようになった(これに対し、従来の近代立憲主義国家は、ドイツの社会主義者ラッサール(Ferdinand Lassale. 1825-64)によって「夜警国家」と揶揄されたし、消極国家とも言われた)。そうすると、ますます議会は機能しなくなる。そこで、行政権の活動が必然的に多くなった。こうして、多くの国家において行政権の比重の拡大という現象が見られてきた。いわゆる行政国家現象であり、権力分立主義の変容とは、第一に行政国家への変化である※。
※但し、既に述べたように、日本の場合は元々行政国家的な色彩が強く、本文に示した説明はそのままでは妥当しない。
権力分立主義そのものは、ファシズム、ナチズム、共産主義などからの挑戦を受けつつも、維持されてきた。しかし、国家レヴェルであれ地方レヴェルであれ、立法権を担う議会の空洞化が、一般的に見られるようになったのである。
行政権は、元来、法の執行機関と位置づけられていた。しかし、議会が機能不全に陥るならば、実際に政策を立てうるのは行政権である。何故なら、国家活動の範囲が大きくなることにつれて、特殊な専門的知識が多く要求されるし、迅速な、しかも組織的な活動を要求するが、このような事柄を議会に、さらには議員に要求しても、不可能とは言えないまでも困難であるからである。このことから、国の基本政策を形成し、決定するための実質的な権限を、行政権が行使するようになったのである。これは、官僚制の発展にもつながり、オンブズマン制度の成立原因にもなる※。
※但し、スウェーデンの場合は憲法などによる特殊な事情があり、行政国家現象がオンブズマン制度を生んだ訳ではない。
第二の変化は、政党国家現象とも呼ばれる。政党の成立原因は、国家によって異なるが、第一の変化において述べた階級対立が、後の政党に発展する場面は多い。元々の権力分立主義は、政党の存在を予定しておらず、むしろ敵対的な態度を見せたほどである。しかし、現実の政治制度に鑑みれば、良かれ悪しかれ政党を無視することはできない。そして、政府・与党と野党との対抗関係が、重要になる。政党は、立法権にも行政権にも関与するのである。
第三の変化は、司法国家現象とも呼ばれ、人権保障の発展と関連がある。国家活動の範囲が拡大されれば、それだけ人権侵害の可能性が広がる。そして、多くの法案が、行政権によって作成され、立法権によって可決されるから、それだけ統制の必要性も大きくなる。行政法学に取り組むにあたり、最も注意を強く向けなければならない部分である。
司法国家現象は、アメリカ合衆国の判例法として登場した違憲審査権の普及による司法権の拡大として捉えられる。アメリカの場合、違憲審査権は現在に至るまで憲法に規定されておらず、1803年のマーヴェリー対マディソン(Marbury v. Madison)事件判決、とくにマーシャル(John Marshall)首席裁判官の法廷意見により、判例法として確立された。しかし、アメリカ合衆国の実質的な憲法の一部をなしているのみならず、20世紀に入り、違憲審査権は幾つかの類型の下に発展し、少なからぬ国で確立されている。日本国憲法も、第81条により、最高裁判所を頂点とする裁判所が違憲審査権を行使することとされている。
しかし、実際のところ、日本において違憲審査権はそれほど行使されておらず、憲法違反の疑いがある法律などについても、合憲の判断が下されている。日本の司法権は、行政権および立法権に対して、積極的に統制を加えることが少ないのである。多くの判決にうかがわれるように、これまでは行政権の第一次的判断権を尊重するという態度が見受けられ、それは過剰でないのかという疑念すら生じさせるものであった。これは、権力分立主義の誤解もしくは曲解に、または時代の変化への不対応に由来するものと思われる。そして、その原因の一つは、従来の行政法学や憲法学が生み出したものであるとも言いうるであろう。
なお、権力分立主義は、元々、立法、司法、行政のそれぞれを担う国家機関相互の抑制・均衡を目指すものとして理解されていたが、最近では、例えば行政権内部における抑制・均衡の関係をも目指すものとする理解が生じている※。これは、従来から内部監査などの形式で行われているが、行政監査といい、会計検査院による検査といい、その機能の有効性については議論がある。2001年には行政機関が行う政策の評価に関する法律が制定され、政策評価の指針や評価基準の策定、さらに第三者機関の設置などが行われている。
※その例として、櫻井・橋本・前掲書20頁。
(2015年11月11日掲載)
(2017年12月20日修正)
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