アルベルト・ヘンゼルの財政調整法理論
――ドイツ財政法理論史研究序説――(一)
(
はじめに)これは、私の大学院生時代最後の論文であり、大分大学教育学部(当時)に就職した1997年4月になって刊行された早稲田大学大学院法研論集第81号に掲載されたものです。しばらくの間、この続編を作成することができず、職業適性などについて深く悩んだこともありました。大分大学の学生に多くの御迷惑をおかけしたのは、このことに由来するかもしれません。ようやく、続編を公表できるような状態になりましたが、題名を変更しております。その意味において、この論文は中途半端なものなのですが、私が最初に公表した論文「行政行為の附款の法理・序説」(1995年10月刊行の早稲田大学大学院法研論集第75号に掲載)と並んで、私の原点を示すものでもあるため、敢えて掲載する次第です。なお、掲載に際して、一部ですが表記を変更しております。目次
第一章 序論
第二章 財政調整法理論成立の背景
(以上、本号)第三章 ヘンゼルの財政調整法理論――成立と発展――
第四章 ポーピッツとヘンゼル
第五章 現代におけるヘンゼルの財政調整法理論の意義
第一章 序論
第一節 財政調整の定義づけの困難性
財政調整(Finanzausgleich)とは、ヴァイマール共和国の成立後、アルベルト・ヘンゼル(Albert Hensel)の教授資格論文『国法上の意義における連邦国家内の財政調整』(Der Finanzausgleich im Bundesstaat in seiner staatsrechtlichen Bedeutung, 1922)により、はじめて法律学上の概念として導入され、同じヴァイマール共和国時代中期にポーピッツ(Johannes Popitz)により確立された概念である(1)。ヘンゼル自身は、財政調整法制度および法理論を、右の教授資格論文を公刊してから早すぎた晩年に至るまで論じ続けていた。その期間は、ヴァイマール共和国誕生直後より共和国死滅までの期間に、ほぼ一致する(彼は1895年に生まれ、1933年にこの世を去っている(2))。
そして、ヴァイマール共和国時代以来、第三帝国時代をはさみ、ドイツ連邦共和国基本法の下で、財政調整は財政憲法(Finanzverfassung)の中核をなすものとして、非常に重要な役割を担っている。従って、ドイツの連邦制を理解するためにも、財政調整制度の理解が必要不可欠である。現在、ドイツにおいては、財政学のみならず法律学においても財政調整に関する議論が数多く見られる。
また、財政調整の概念は、ドイツからの影響を強く受けた日本の財政学、租税法学・財政法学においても、第二次世界大戦前から用いられている(3)。日本において、財政調整は地方財政調整とも称され、地方財政を論ずる際のキー・ワードとなっている。
しかし、ドイツにおいては、財政調整という概念が有する重要性にもかかわらず、財政調整の確定的定義が未だ存在しないという状況にある(4)。即ち、財政調整は、決して明瞭な概念ではない。例えば、レンチュ(Wolfgang Renzsch)は、財政調整を「特定の国家領域における領域団体(Gebietskoerperschaften)間の財政上の関係であり、時には、その関係に関連する、連邦として構成される国家の異なる水準の(――の領域団体。引用者注)の間の任務配分(Aufgabenteilung)」と定義する(5)。しかし、この定義が確定的なものと捉えられている訳ではない。仮に、何らの定義づけもなく財政調整という語が用いられるとしても、そのことは財政調整という概念の自明性を示すものではない。
日本においても、財政調整について明確な定義が下されていない場合が多い。それ故に、何を財政調整(法理)論の対象にするかについて必ずしも明らかでなく、しかも論者により射程距離に微妙な差異が存在する、という状況にある。一般的には、地方交付税制度が財政調整制度に該当するという共通理解がある(6)。しかし、それ以外にいかなる制度が財政調整制度に含まれるのか。国庫支出金(地方財政法第10条以下および同第17条に規定される国庫負担金と同第16条に規定される国庫補助金からなる)は、財政調整制度に含まれないのか。現在の学説においては、国庫支出金を財政調整制度に含める説(7)、国庫補助金を財政調整制度に含めない説(8)、国庫支出金について明言を避けている(それ故に、国庫支出金を財政調整制度に含めるか否かが明らかでない)説(9)が並存する(10)。いずれの定義も、現実の制度が財政調整制度に該当するか否かというSeinの視点からのものであり、Sollenの視点からのものではない。さらに付け加えるならば、日本においては、ドイツの財政調整(法)制度を紹介または検討する論文の数も少なくない。しかし、財政調整の明示的かつ確定的な定義はなされぬままに論述がなされている(11)。
尤も、日本において、若干ながら、財政調整を積極的に定義する試みも存在する。
伊東弘文は、単一国家におけるものと断った上で「財政調整とは、中央政府によっておこなわれる地方政府の財源保障および財政力格差の平衡化であるとほぼ一義的に説明することができる」と述べる(12)。
金井利之は、財政調整の定義につき、次のように述べる。
「財政調整とは、複数の相対的に自立した財政主体(政府会計)から構成される関係を、ある望ましい状態に保とうとする営みである。望ましい状態は、通常は自然に形成されるものではなく、一定の目的的な行政活動を必要とする。この行政活動を具体的に担うものが、財政調整プログラムである。財政調整プログラムとの相互作用によって、財政調整のあり方に影響を与えるのが、財政調整プログラム環境である。財政調整プログラムと財政調整プログラム環境とからなる営みの総体が、財政調整制度である。財政調整の基本的な特徴は、第一に政府の財政会計的な側面への着目と、第二に政府会計の複数性ないしは政府会計間関係への注目とにある」(13)
伊東の定義は財政学(または地方財政論)的観点からのものであり、金井の定義は行政学的観点からのものである。従って、いずれの定義も、法律学的観点からのものではない。このこと自体は問題にならない。問題は、両者の定義の中身である。
まず、伊東の定義については、「財源保障」および「財政力格差の均衡化」という語の具体的内容が必ずしも明らかではない、という難点がある。おそらく、右の定義は、日本の地方交付税制度を念頭に置いたものであろう(国庫支出金も含まれるものと思われる)。地方交付税制度は、地方公共団体の「財源保障」および複数の地方公共団体の「財政力格差の均衡化」を基本理念とするものと言いうるからである(地方交付税法第1条を参照。勿論、理念と実態とは別のものであるから、地方交付税制度の実態がいかなるものとなっているかという点については、別途の検討を必要とする)。しかし、地方税制度は右の定義に含まれるのであろうか。地方税制度は複数の地方公共団体の「財政力格差の均衡化」を直接の目的にするものである、とは言えないとしても、地方公共団体の「財源保障」を(本来ならば)目的とするものではないのであろうか。伊東自身、「地方税が地方財政のみならず、地方自治の根幹をなすことは、自明の理といえよう。地方税なくしては地方財政需要を充足することは一般的に不可能であるばかりでなく、地方税による充足度合が高ければ高いほど地方自治は強固な基礎の上にたつことができるからである」と述べる(14)。そもそも、地方税制度が存在せず、その結果として地方公共団体に課税権限がなければ、地方公共団体の財政は国に依存し、その反射として国からの監督を受ける結果となり、地方自治の意味がなくなる。従って、地方税制度は、国の財源と地方公共団体の財源とを調整する制度であり、国と地方公共団体との財政関係を規律する一制度であると言いうるのではなかろうか。あるいは、伊東の定義からは、地方税制度は除外されるのであろうか。いずれにせよ、伊東の定義には不明瞭な点が残されている。
次に、金井の定義については、「財政調整プログラム」という語に対して疑問が残る。金井自身がこの語を用いる時、具体的には、国から地方公共団体への(連邦国家においては連邦から諸州への)交付金制度(日本の国庫支出金のごとき制度も含まれるものと思われる)が、主として念頭に置かれているのであろう(15)。しかし、日本の地方税法のごとき、国と地方公共団体との税源配分を目的とする法制度は「財政調整プログラム」に含まれないのであろうか。金井自身は、「税制と財政調整制度との関係は微妙である。(中略)複数の政府関係を念頭に置いた税制(税源配分)の構築は、その問題関心は財政調整制度ときわめて近いものとなり、これを財政調整に含めることもできる」と述べながらも、「税制は財政調整制度にとっては、与件的な環境であると捉えることにする。既存の税制による収入を与件としたときの、政府間会計関係の適正化が、固有の意味での財政調整の展開の場となる」とする(16)。しかし、例えば日本のごとき単一国家における国と地方公共団体との財政上の関係を法律によって規律する際――第一に憲法によって規律することも可能である――、まず両者にいかに税源を配分するかが問題となり、その次に地方交付税や国庫支出金が問題となるはずである。「財政調整プログラム」という語には、税源配分を規律する法制度を含みうるのではなかろうか。そもそも、国と地方公共団体(連邦国家においては連邦・州・地方公共団体)とに税源をいかに配分するかという問題こそ、財政関係における最重要課題であろう。
第二節 財政調整の多義性
日本においてもドイツにおいても、財政調整に対する確定的な定義は存在しない。このことは、財政調整という概念に多義性が存在しうることを意味する。
日本国憲法には、財政調整に関する明文の規定は存在しない。これに対し、現行のドイツ共和国基本法は、第105条において連邦および州の租税立法権限を、第106条および第106a条において連邦と州(およびゲマインデ)との租税収入配分(「垂直的収益分配」)に関する規定を、第107条において州相互間における租税収入配分(「水平的収益分配」)に関する規定を置く。このことから、「財政調整とは、一国家内における複数の財政高権主体の間において租税立法権限の配分および租税収入配分の調整をなすことである」と考えることも可能である。
財政調整の多義性を指摘する者も存在する。例えば、ノイカム(Erich Neukamm)は、「異なる領域団体への収入(――租税の。引用者注)の配分」、「任務、支出、充足手段の限界づけ」、「収入および負担の配分、財政立法、財政行政および財政裁判権の観点からの諸権限の限界づけ、ならびに連邦、諸州およびゲマインデにおける全予算制度、全国庫制度および全会計制度を同格に扱うこと(Gleichordnung)であり、任務配分ではない」という定義の例をあげている(17)。また、シュテルン(Klaus Stern)は、「租税立法の権限の配分に関する決定が、結果として必然的に租税収入の配分を伴う訳ではない」とした上で、広義の財政調整には個々の領域団体への「公的収入の配分」のみならず、任務の配分、およびその任務を遂行するための支出の配分も含まれるという旨を述べる(18)。そして、シュテルンは、狭義の財政調整を「連邦と諸州との間の収入の配分」と位置づける(19)。しかし、マウンツ(Theodor Maunz)は、やはり広義の財政調整および狭義の財政調整という語を用いながらも、狭義の財政調整を連邦と州との間の税源配分と捉え、広義の財政調整については租税制度の領域における立法権限の配分をも含めている(20)。
このように、財政調整の定義は多様であり、多義性を帯びうるものとなっている。
それでは、何故、財政調整という概念は多義的たりうる――このことが、結果的に財政調整の確定的な定義が存在しないことにつながる――のであろうか。その理由としては、第一に、既に述べた通り、財政調整が第一次世界大戦後になってはじめて学問上の概念として登場したこと、第二に「財政調整が各国で、その経済的・政治的条件の相違の故に異なった発展を遂げてきたこと」、第三に「そのためこれらの諸国を通ずる一般理論を発展させることができなかったこと」をあげうる(21)。また、財政調整は、多分に政策的な要素が強く、様々な形態を取りうることが、概念の多義性および不明確性につながると考えられる。そして、ドイツの場合については、憲法体制の変化という事実をあげうる。財政調整が財政憲法の中核をなすものとして、非常に重要な役割を担っている以上、財政調整の具体的内容は財政憲法に従う必要があるからである。
第三節 ヘンゼルの財政調整法理論を検討することの意義
既に述べたように、財政調整に対する明示的かつ確定的な定義は存在せず、多義性を帯びている。しかも、日本において、財政調整に対する、法律学的な、Sollenの観点からの定義は試みられてもいない。そもそも、日本の法律学においては、ドイツの財政調整に関する研究はほとんど存在しない(従って、ヘンゼルの財政調整法理論に関する分析もなされていない)。また、日本の財政学においては、ヴァイマール憲法下の財政調整法制度に関する、若干法律学的考察に立ち入った研究が存在するが(22)、ヘンゼルの財政調整法理論は全く議論の対象となっていない。
しかし、財政調整が財政法理論にとっていかなる意義を有するかを知るためには、ヘンゼルの財政調整法理論に対する検討を欠かすことはできない。むしろ、財政調整を法律学的に、とりわけ憲法学的に理解しようとするのであれば、まず、ヘンゼルの財政調整法理論に対する検討を加える必要がある。何故なら、彼は『国法上の意義における連邦国家内の財政調整』において、はじめて学問的に検討を加えたのであり、憲法学的観点から財政調整(法理)論を構築しようと試みたからである。
それでは、ヘンゼルの財政調整法理論を検討することには、いかなる意義が存在するのか。私は、次に掲げる五点にあると考える。
@財政調整に関する初の本格的研究において、ヘンゼルは財政調整にいかなる意義を与えたか。また、彼の研究は、法律学的にいかなる意義を有するか。財政調整という概念はいかなる過程において生成されたか。
ヘンゼルの財政調整法理論を検討することにより、そもそも法律学的に、財政調整とは国と地方公共団体との――連邦国家であれば連邦と諸州との、州と地方公共団体との、そして諸州間の――財政関係のいかなる面に着目したものであったかを知ることができる。その結果として、これまで不明瞭な点を残したまま発展してきた財政調整(法)理論の整理を図り、財政調整という概念に対する法律学的な、明瞭かつ確定的な定義をなすことが可能になると思われる(少なくとも、その手掛かりを得られる)。
Aヴァイマール共和国誕生直後より共和国死滅寸前まで、ヘンゼルの議論はいかなる変化を遂げたのか。
Bヘンゼルの財政調整法理論を検討することにより、ヴァイマール憲法の下での公法学における財政調整法理論一般の水準を知る手掛かりを得られる。但し、そのためにはポーピッツの財政調整法理論との対比が不可欠である。
Cヘンゼルの財政調整法理論は、ドイツ連邦共和国基本法の下での実定法制度および公法学にいかなる影響を与えたか。
Dヴァイマール憲法の下での財政調整法制度および理論を検討することにより、日本の地方財政法制度および地方税法制度に対する再検討の手掛かりを得られるのではないか。
この五点を解明し、最終的には、財政調整の法律学的な定義づけの可能性を示すことが、本稿における課題であり、目的である。
第二章 財政調整法理論の成立の背景
伊東弘文は「ドイツ近・現代史を一瞥すると、ドイツは連邦制と単一制の間を揺れ動いた『実験国家』でもあったという点を指摘」する。彼によれば、ドイツは20世紀中に五回も憲法体制を変える実験をしたという。五回の実験とは、@ドイツ帝国憲法、Aヴァイマール憲法、B第三帝国、Cドイツ民主共和国、Dドイツ連邦共和国(とくに1990年10月3日の再統一以降)である(23)。
右の評価には問題点もある。1949年10月7日のドイツ民主共和国憲法は、第1条第1項において「ドイツは不可分の民主的共和国である。共和国はドイツ諸州に基づく」と規定し、第71条以下において、州の代表により構成される全州議会(Laenderkammer)に関する規定を置いていた。しかし、1952年7月23日の「ドイツ民主共和国の州における国家機関の構成および作用方法(Arbeitsweise)の一層の民主化に関する法律」によって州が廃止され、1958年2月8日の法律によって憲法第71条ないし第80条が削除され、全州議会が廃止された(24)。即ち、ドイツ民主共和国は、1950年代に連邦国家から単一国家へ変貌したのである。
また、ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国という、40年ほど並存した独立国家を、右のように「実験」として同じ次元において論じうるのか、という疑問も残る。
しかし、いずれにせよ、ドイツが(第三帝国および1952年以降のドイツ民主共和国を除いて)連邦国家体制を維持してきたということ、しかし、同じ連邦制といっても時代によりその様相を異にするという事実は重要である。この事実を如実に表現するものが、財政憲法、とりわけ財政調整なのである。
財政調整は、ヘンゼルによって初めて学問的考察を加えられた。彼の『国法上の意義における連邦国家内の財政調整』は、主としてドイツ帝国と当時の世界の主要な連邦国家との比較研究という体裁を採った。ヘンゼルは財政調整をいかなるものとして捉え、財政調整の理念を何処に見出したのであろうか。
その際、当然のこととして、ヘンゼルの念頭にあったものは、1918年の第一次世界大戦敗北と革命、それらの所産としての1919年8月11日のヴァイマール憲法、そして、1919年から20年にかけてエルツベルガー(Matthias Erzberger)の主導の下で行われた財政改革(以下、エルツベルガー財政改革)によって誕生した財政調整法制度である。ドイツ帝国憲法からヴァイマール憲法への変遷は、連邦国家の枠組みにおける大きな変化を伴った。ヘンゼルの財政調整法理論を検討するための前提として、本章において時代背景を概観しておかなければならない。
第一節 ドイツ帝国時代
一般的に、ドイツ帝国は、ドイツ統一の主体となったプロイセンが優位に立ちつつ諸邦分立主義(Partikularismus)をとる連邦国家であった、という旨の評価が下される(25)。1871年4月16日のドイツ帝国憲法の規定を見る限りにおいて、右の評価そのものは誤りではなかろう。しかし、実際の過程に目を移すならば、ドイツ帝国には、諸邦分権主義のみならず、集権主義(Unitarismus)への傾向も存在した(26)。
帝国憲法によれば、連邦としての帝国は、関税および消費税についての専属的立法権を有した(第35条第1項)。また、郵便制度・電信制度からの収入は帝国に帰属した(第49条)。即ち、憲法上、帝国財政は関税・消費税・郵便制度・電信制度からの収入によって成っていた。これらの収入のみでは帝国財政に不足を来す場合には、諸邦(Staaten)からの分担金(Matrikularbeitraege)により補充された(第70条)。しかし、帝国は「任意の租税を設定することが許されていたにもかかわらず、連邦国家上の政治的理由により」導入をためらっていた(27)。
ここで言う「任意の租税」とは、主に直接税のことである。ドイツ帝国成立後、帝国は自らの財源を拡張することに努めていたが、その成果は間接税となって現われたのであり、多収性に富む直接税は導入されなかった。しかも、帝国は自身の租税行政機構を有せず、帝国租税の徴収をも諸邦の租税行政機構に委ねていた。これでは、仮に帝国直接税(とくに所得税)が導入されていたとしても、帝国財政は充分に営まれなかったであろう。ドイツ帝国は「分権主義的連邦国家」(foederativer Bundesstaat)であったとの、フーバー(Ernst Rudolf Huber)の指摘は、財政面において充分に妥当する(28)。
しかし、ドイツ帝国時代に集権的傾向が全く見られなかった訳ではない。1879年の関税改革によって導入された、いわゆるフランケンシュタイン条項(関税税率法第8条)がその例である(29)。この条項により、帝国の関税収入の一部が交付金(Ueberweisungen)として配分された。しかし、1899年以降、諸邦からの分担金は帝国からの交付金を上回る結果となった。帝国財政が逼迫するようになった訳である。その理由は、第一に帝国軍事費(とくに海軍費)の増大、第二に「労働者階級の組織の急速な成長や、農民層ならびに手工業者層の旧中間的社会層の分解の進展」に求められる(30)。また、帝国の財源とされる関税・消費税は、農業保護によるユンカーの「利害状況と深く関わりあっていた」(31)。そのため、関税・消費税からの収入は大きく制約を受け、帝国財政は公債への依存を深めていかざるをえなかった。
帝国財政の改革のため、1908年、帝国議会において火酒の帝国専売および帝国相続税の導入が提案された。しかし、火酒の帝国専売は実現せず、火酒消費税法の改正に留められた。最も重要な課題であった帝国相続税の導入も、保守派の強い反対に遭い、結局は見送られた。帝国が直接税を導入できなかったことは、第一次世界大戦の際、ドイツ帝国の戦況に大きな打撃を与える結果につながる。
1914年からの第一次世界大戦にドイツ帝国は敗れ、結局は革命による共和国体制の出現に至るのであるが、問題は、政体の変化により連邦・州間関係がいかに変化すべきであったのかということである。その問題に対する現実の解答は、ヴァイマール憲法およびエルツベルガー財政改革として呈示された。そこで、これら二つの解答の概要を検討しておかなければならない。
第二節 ヴァイマール憲法
既に述べたドイツ帝国財政の公債への依存は、第一次世界大戦開始とともに強化されることとなる。これは、当時の帝国政府が抱いていた「短期決戦思考」の影響であると言われる。ドイツの戦費調達における公債への依存度はアメリカやイギリスよりも高く、ドイツは戦勝による他国からの賠償金を頼りにしていた(32)。戦争中に戦費調達のための増税が全くなされなかった訳ではなく、1915年12月に帝国銀行戦時税が創設されて以来、1917年および1918年にも増税がなされている(33)。しかし、増税による戦費調達も、戦況の改善には繋がらなかった。むしろ、1916年以降、公債の未償還率が上昇し、戦後のハイパー・インフレーションの原因を形成することになる。
一方、戦争の長期化により、帝国そのものも国民生活も疲弊し、1918年11月の革命および終戦により、ドイツ帝国は終焉を告げる。この革命をいかなるものとして理解すべきかという問題は本稿の主題から外れるので、ここでは論じない。ただ、諸邦分立の上に築かれ、そして関税・消費税など若干のもの以外に独自の充分な財源を有しえなかったドイツ帝国は、長期の戦争により破綻する運命にあった、と言いうるかもしれない。
そこで、新憲法(ヴァイマール憲法)の制定に至る訳であるが、本稿の関心に即すならば、連邦と各邦(ヴァイマール憲法においては「各州」(Laender))との関係をいかに規律するかが問題であった。ヴァイマール憲法草案の起草者プロイス(Hugo Preuss)は、各州に自治行政権のみを認める単一国家を構想していた。彼は、ヴァイマール共和国憲法の指導理念が「国民的統一意識」(nationales Einheitsbewusstsein)であってドイツ帝国のごとき「個々の邦の連合体」ではないと述べ、「ドイツの新たな政治的組織体の出発点は、国民の統一である」と考えていたのである(34)。プロイスにとっては、ドイツ帝国は国民国家ではなかったのであり、ドイツに真の国民国家を成立させるためには分権主義的国家ではなく集権主義的国家の成立こそ必要であると考えられたのであろう。
しかし、実際にはプロイセンが安定を保っていたため(解体されれば左翼革命運動を抑止する力が消滅する、という情勢にあった)、および各州の抵抗に遭ったため、新体制は連邦国家とされた(35)。但し、ヴァイマール憲法前文の「ドイツ国民」(Das Deutsche Volk)という表現、および第一条の「ドイツ・ライヒは共和国(eine Republik)である。国家権力は国民に由来する」という表現は、この共和国が連邦としてのライヒ優位の国家であったことを示している(現行の基本法第20条第1項が「ドイツ連邦共和国は、民主的・社会的な連邦国家(ein demokratischer und sozialer Bundesstaat)である」と規定するのと比較されたい(36))。フーバーが指摘するように、ドイツ帝国が「分権主義的連邦国家」(foederativer Bundesstaat)であったとするならば、ヴァイマール共和国は「集権主義的連邦国家」(unitarischer Bundesstaat)であった(37)。
第三節 エルツベルガー財政改革
ヴァイマール憲法は、第8条においてライヒに広範な租税法律の立法権を与え(このことは第12条によっても担保される)、第11条において、ライヒが州の公課(Abgaben)の許否または徴収方法に関して原則を定めうる旨を規定する。これらの事柄をさらに具体化しまたは補充したのが、1919年および20年のエルツベルガー財政改革である。この改革によって、帝国時代から見られた連邦政府の財政拡充への努力は一応の完成を見た(但し、ヘンゼルはこの改革を「応急的」と評価している(38))。
ヴァイマール憲法制定当時、ライヒの財政は破綻状態にあった。第一次世界大戦敗戦による連合国側への賠償金、戦時公債の利子などによるものである(39)。インフレーションの進行は、当然、ライヒ財政の困窮度を加速したであろう。そこで、当時の大蔵大臣エルツベルガーによって財政改革が断行された。
この財政改革の主な目的は、ライヒの財政収入の引き上げにあった。そのため、ヴァイマール憲法第8条に基づく形において、新たなライヒ税が次々に設けられた。エルツベルガーは、ライヒの財源を立て直すためにはライヒに租税高権を集中することを不可欠と考えていた。かくして、1920年3月29日には(ライヒ)所得税法が、その翌日には(ライヒ)法人税法が認証されている。ヘンゼルによれば、エルツベルガー財政改革は「全連邦国家の財政システムの力点を、ライヒによる州租税の広範な利用によってライヒ予算に移した。租税負担の可能な限りの均等性を維持するため、最も重要な直接税、とりわけ所得税に関する従来の連邦構成諸邦の立法権はライヒに移された」(この改革に対するヘンゼルの見解については、後に検討する(40))。
また、財政調整という主題の故に欠かすことができないのは、1920年3月30日の州租税法(Landessteuergesetz)である(41)。この法律は、第1条においてヴァイマール憲法およびライヒ法に反しない限りで州およびゲマインデに「州法による租税を徴収する」ことを認める。しかし、第2条第1項において原則としてライヒ租税と同種の州租税およびゲマインデ租税の設定・徴収を禁じ、第3条において「ライヒの租税収入を阻害すると認められる州租税およびゲマインデ租税は、ライヒ財政の優越的な利益に矛盾するならば、徴収されないものとする」と定める。第3条に抵触する州法およびゲマインデ法は第4条により「廃止され、またはライヒ財政の利益とともに異議がもはや存在しないように改正されなければならない」とされた(なお、第17条により、州およびゲマインデにはライヒ「所得税および法人税収益の3分の2が」配分されることとなった)。結果として、州の財政高権はドイツ帝国時代と比して非常に弱められた。州租税法は、1923年6月23日の州租税法改正法律によって、財政調整法(Finanzausgleichsgesetz. 正式名はGesetz ueber den Finanzausgleich zwischen Reich, Laender und Gemeinden)と改称され、ヴァイマール共和国の財政調整を規律し続けることになる。
また、1919年12月13日のライヒ租税通則法(Reichsabgabenordnung)についても触れておかなければならない。この法律自体は、エルツベルガーの財政改革とは無関係に、1918年のドイツ帝国崩壊直前から法案の起草作業が開始された(42)。しかし、ドイツ帝国時代には存在しなかった連邦自身の租税行政機構がライヒ租税通則法によって設立されることとなり、行政機構の面からライヒへの租税高権の集中化を助け、エルツベルガー財政改革の実効性を高める結果になったと言えよう。
結局、エルツベルガー財政改革は、ライヒの財政を拡張し、州の財政高権を大幅に奪うものであった。改革自体は、インフレーションのさらなる進行によって失敗に終わったが、ライヒへの租税収入の集中化という観点から見れば成功した。ライヒに財政高権を奪われた州は、ライヒの財政交付金に依存せざるをえなくなった。州は「ライヒの年金生活者」(Reichspensionaeren)となった訳である。これらの要素が、ドイツにおいてヴァイマール共和国時代に至って財政調整(法)が論じられはじめたことの原因であった(43)。
ドイツ帝国の下では、諸邦が広範な財政高権を有し、連邦としての帝国は、僅かな財源の他は(公債を除けば)諸邦からの分担金により財政を運営する、いわば諸邦の「食事付き下宿人」(Kostgaenger der Laender)であったため、財政調整が論じられるような状況は生まれなかった。ヴァイマール共和国になってから連邦としてのライヒが財政高権を強化したために、連邦の財政高権と州の財政高権との調整をなさなければならないという情勢が生まれたのである。このことについて、ヘンゼルは、端的に「中央権力と構成力との財政調整は、1848年および1871年には副次的な意味のみを主張しえた。1918年、財政問題は立法機関の関心の焦点に立った。若きドイツ共和国がその最初の日から曝された財政上の困難が、急速かつ決定的な解決を促した」と述べている(44)。
以上から、ドイツにおいて、財政調整という概念は、直接的には第一次世界大戦後におけるライヒ財政の苦境の、間接的には国民国家思想の一つの帰結としての連邦国家の中央集権化の産物である、と言いうるであろう。ヘンゼルが財政調整法理論を打ち出した背景には、まさに、ドイツにおける国民国家思想の帰結である――プロイスの構想に必ずしも沿っていないが――集権的連邦国家の誕生という事実が存在したのである。
(1) 但し、財政調整という語は、もともとスイスにおける連邦(Eidgenossenschaft)と州(Kanton)との財政関係を指すものとして用いられていた。Johannes Popitz, Der Finanzausgleich, in: Wilhelm Gerloff / Franz Meisel (Hg.), Handbuch der Finanzwissenschaft, 2. Band, 1. Auflage, 1927, S. 344; Wilhelm Bickel, Finanzwirtschaftliche Beziehungen zwischen oeffentlichen Koerperschaften, Der Finanzausgleich, in: Wilhelm Gerloff / Fritz Neumark (Hg), Handbuch der Finanzwissenschaft, 2. Band, 2. Auflage, 1956, S. 731.ヘンゼルがスイスの財政調整法制度をいかなるものと捉えていたかということについては、第三章において検討する予定である。また、佐藤進=林健久編『地方財政読本』〔第四版〕(1994年、東洋経済新報社)177頁[持田伸樹執筆]によれば「地方財政調整制度(――ここでは財政調整制度と同義。日本においては地方財政調整制度という語が多用される。引用者注)が各国において成立するのは、第一次世界大戦後のことであ」るとされる。しかし、その理由については述べられていない。なお、金井利之「財政調整の行政学(一)」国家学会雑誌107巻9・10号(1994年)894頁は「財政調整を地方財政調整に限定しない」と述べているが、同時に「地方財政調整とそれ以外の財政調整との相違点については、今後の研究課題である」とし、「地方財政調整制度を前提として」財政調整について検討を加える旨を述べる。
(2) ヘンゼルの生涯および業績を紹介する文献として、Paul Kirchhof, Albert Hensel, Forscher eines rechtsstaatlich gebundenen systematischen Steuerrechts―Zum Oktober 1983―, StW 1983, S. 357ff.(三木義一訳「アルベルト・ヘンゼル――法治国家的に拘束され、体系化された租税法の研究者――」静岡大学法経研究33巻1号(1984年)109頁)、derselbe, Albert Hensel (1895-1933), Ein Kaempfer fuer ein rechtsstaatlich geordnetes Steuerrecht, in: Helmut Heinrichs / Harald Franzki / Klaus Schmalz / Michael Stolleis (Hg.), Deutsche Juristen juedischer Herkunft, 1993, S. 781ff.がある。また、ヘンゼルの租税法学に関する邦語文献として、三木義一「ヘンゼル税法学の構造――伝統的行政法学批判の一素材として」現代税法と人権(1992年、勁草書房)22頁がある。なお、Reimer Voss, Steuer im Dritter Reich, 1995, S. 163ff.にもヘンゼルの生涯および業績に関する記述があり、同書においてヘンゼルの租税法理論が至る所に引用されている。
(3) 第二次世界大戦前の日本において公表された財政調整に関する論文としては、例えば、中川與之助「独・墺・米・瑞に於ける中央・地方財政の調整」都市問題7巻6号(1928年)129頁、同「独逸に於けるFinanzausgleichの理論」京都帝国大学経済学会経済学論叢30巻5号(1930年)65頁、同「独逸舊税制の崩壊と財政調整法(上)」京都帝国大学経済学会経済論叢31巻4号(1930年)96頁、同「独逸舊税制の崩壊と財政調整法(下)」京都帝国大学経済学会経済論叢31巻5号(1930年)97頁、岡野文之助「財政調整」都市問題13巻2号(1931年)249頁、同「独・墺に於ける財政調整制度」都市問題13巻4号(1931年)841頁がある。
(4) Vgl. etwa Erich Neukamm, Der vertikale bundesstaatliche Finanzausgleich seit 1871 im Widerstreit von Verfassungsrecht und Wirklichkeit, 1966, S. 10. その後の文献を参照しても、財政調整に対する明確な定義が下されていない場合が多い。
(5) Wolfgang Renzsch, Finanzverfassung und Finanzausgleich, Die Auseinandersetzungen um ihre politische Gestaltung in der Bundesrepublik Deutschland zwischen Waehrungsreform und deutscher Vereinigung (1948-1990), S. 11.
(6) 例、佐藤進「国と地方公共団体の財政上の関係」雄川一郎=塩野宏=園部逸夫編『現代行政法大系第10巻財政』(1984年、有斐閣)306頁、金子宏『租税法』〔第五版〕(1995年、弘文堂)94頁、碓井光明『自治体財政・財務法』〔改訂版〕(1995年、学陽書房)39頁。
(7) 金子宏「総説」雄川一郎=塩野宏=園部逸夫編『現代行政法大系第10巻財政』6頁、山崎正『地方分権と予算・決算』(1996年、勁草書房)93頁。また、橋本徹「イギリスの財政調整制度――レイフィールド委員会報告を中心に」藤田武夫=和田八束=岸昌三編『地方財政の理論と政策』(1978年、昭和堂)も、同じ前提をとるものと思われる。なお、佐藤・注(6)305頁は、「地方財政調整制度――交付税交付金を中心に――」という表題の下に地方交付税制度について論述しているが、地方交付税制度以外の何が財政調整制度であるかについては明言していない。
(8) 遠藤湘吉「政府間の財政調整」武田隆夫=遠藤湘吉=大内力編『資本論と帝国主義論下――帝国主義論の形成と展開』(1971年、東京大学出版会)356頁。但し、この論文においては、国庫負担金を財政調整制度に含めるか否かについて明言されていない。
(9) 例:俵静夫『地方自治法』(1969年、有斐閣)364頁、大島通義=宮本憲一=林健久編『政府間財政関係論』(1989年、有斐閣)所収の各論文、高林喜久夫「曲がり角に立つ地方財政調整」本間正明他『地方の時代の財政(シリーズ現代財政3)』(1991年、有斐閣)59頁、佐藤=林編[持田]・注(1)177頁。
(10) 金井・注(1)896頁(註2)も、「日本語の『財政調整』の定義は、論者によって多様である」と述べる。
(11) 注(3)に掲げた諸文献の他、加藤栄一「ドイツにおける財政調整制度の成立」大内力編『現代資本主義と財政・金融2地方財政』(1976年、東京大学出版会)403頁、佐藤進「西ドイツにおける財政調整制度」『現代西ドイツ財政論』(1983年、有斐閣)226頁、伊東弘文「連邦・州間財政調整をめぐる憲法紛争の発生と解決」原田溥=津守常弘編『現代西ドイツの企業経営と公共政策』(1989年、九州大学出版会)183頁、同『現代ドイツ地方財政論』〔増補版〕(1995年、文眞堂)1頁、同「ドイツ連邦制の政府間財政関係」日本地方財政学会編『税制改革の国際比較』(1995年、勁草書房)106頁、大西健夫編『ドイツの政治』(1992年、早稲田大学出版部)111頁[伊東弘文執筆]、山田誠『ドイツ型福祉国家の発展と変容――現代ドイツ地方財政研究――』(1996年、ミネルヴァ書房)を参照。
(12) 伊東弘文『現代ドイツ地方財政論』〔増補版〕1頁。同書同頁においては「連邦国家であるドイツにおいては、まず連邦と州との財政関係の総合的な調整が課題として顕在化し、ついで市町村の財源保障が問題として登場するという沿革をもつため、財政調整概念も連邦国家の維持もしくは改革とつねに結びついて、ドイツに特有な複雑な発展をとげることになった」とも述べられている。
(13) 金井・注(1)892頁。
(14) 伊東・注(12)203頁。
(15) 金井・注(1)895頁、912頁、924頁、936頁、937頁を参照。なお、金井「財政調整の行政学」〔(二):国家学会雑誌108巻7・8号(1995年)806頁、(三):同第109巻3・4号(1996年)331頁、(四):同109巻5・6号(1996年)407頁、(五・完):同109巻9・10号(1996年)835頁〕は、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、オーストラリアの各国における財政調整制度を素材にする論文であり、全体的には交付金制度が中心に据えられている。
(16) 金井・注(1)895頁。
(17) Neukamm (Anm. 4), S. 10. ノイカムがあげる定義は、 本文列記の順に、Hermann Hoepfer-Aschoff, Das Finanzwesen der Bundesrepublik, Bemerkungen zu dem Buch von G. Wacke, Finanzarchiv, Neue Folge, Band 12 (1950/51), S. 726; Karl Maria Hettlage, Finanzausgleich, in: Goerres-Gesellschaft(Hg.), Staatslexikon, Recht Wirtschaft Gesellschaft, Band 3, 6. Auflage, 1959, Sp. 267; Gerhard Wacke,Das Finanzwesen der Bundesrepublik, 1950, S. 17によるものである(但し、最後にあげた論文を参照することはできなかった)。
(18) Klaus Stern, Das Staatsrecht der Bundesrepublik Deutschland, BandU, 1980, S. 1127ff.
(19) Stern (Anm. 18), S. 1129, und derselbe, Das Staatsrecht der Bundesrepublik Deutschland, BandT, 1. Auflage, 1977, S. 540.
(20) Theodor Maunz, in: Theodor Maunz / Guenter Duerig, usw., Grundgesetz, Kommentar, Band W Art. 91a~146, Lfg. 31, 1994, Art. 106, Rn. 4f.
(21) 佐藤進「財政調整制度の国際比較」藤田武夫=和田八束=岸昌三編『地方財政の理論と政策』69頁。同書同頁には「財政調整制度が『第一次大戦の申し子』であるといわれるように、比較的新しい財政現象である」(原文は算用数字)という記述があるが、これは、厳密に言えば誤りである。財政調整制度は、ドイツ帝国においても実質的に存在していた(Vgl. etwa Franz Koltermann, Finanzausgleich als Problem der Finanzgesetzgebung des Reichs nach dem Kriege, 1931, S. 7ff. この点については、第三章において検討する)。なお、佐藤の記述は、Bickel (Anm. 1), S. 730に依拠しつつなされている。
(22) 伊東弘文「ヴァイマル期ドイツの財政調整制度とJ.ポーピッツの財政調整論」(上)、北九州大学商経論集16巻3・4号(1981年)65頁、(中)同17巻1号(1981年)25頁、(下)同17巻2・3号(1982年)69頁。
(23) 伊東弘文「ドイツ連邦制の政府間財政関係」日本地方財政学会編『税制改革の国際比較』106頁。
(24) 山田晟『ドイツ民主共和国概説上』(1981年、東京大学出版会)12頁を参照。
(25) ハフナー(Sebastian Haffner)は「ビスマルクのドイツ帝国は、北ドイツ連邦よりもはるかに、連邦国家的性格よりも、むしろ国家連合的性格をもっていた」と述べる{山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡――ビスマルクからヒトラーへ――』(1989年、平凡社)44頁}。しかし、このハフナーの評価は、憲法学(あるいは国法学)的な観点からすれば、行き過ぎであろう。
(26) Unitarismusという語に対しては、「単一主義」、「統一主義」、「中央集権主義」などの訳語が考えられる。ドイツにおいて、UnitarismusとFoederalismusは両立しうるのであり、両者は「連邦国家を必要とみなして」いる(Albert Hensel, Der Finanzausgleich im Bundesstaat in seiner staatsrechtlichen Bedeutung, 1922, S. 28)。従って、厳密に訳すならば「連邦集権主義」となるであろう。しかし、日本との比較を考慮に入れ、「集権主義」とした。
また、Foederalismusという語には「連邦主義」という訳語があてられることが多いが、不精確であると思われる(この訳語では、連邦構成国の諸権限を維持・強化を目的とする思想であるのか否かが明確にならない)。そのため、「分権主義」という訳語を用いた。
(27) Albert Hensel, Steuerrecht, 3. Auflage, 1933 (Neudruck 1987), S. 27. なお、本文において示した事情につき、ヘンゼルは同書において理由を述べていない。おそらく、@ドイツ帝国を構成する諸邦のうち、プロイセンが領土・人口の両面において最大の邦であったこと(この他、バイエルン、ザクセンおよびヴュルテンベルクの三邦が規模の大きな邦であった)、Aプロイセン国王がドイツ皇帝を兼任し(帝国憲法第14条第1項)、プロイセン宰相がドイツ帝国宰相を兼任した(同第15条第1項)ことにより、帝国の権限強化が連邦参議院(Bundesrath)の「政治的均衡を脅かす」結果につながらないようにしなければならなかったこと――同憲法第6条第1項により、プロイセンには17の投票権が与えられていた。同第78条第1項第2文により、憲法改正法律は、連邦参議院において14票の反対があれば否決されるとされた。このことのみを見ても、ドイツ帝国がプロイセン優位の連邦国家であったことを理解しうる――が原因であろう。C.F.メンガー(石川敏行他訳)『ドイツ憲法思想史』(1988年、世界思想社)210頁を参照。また、プロイセンはヴァイマール共和国においても最大の州であった。メンガー(石川他)・同書251頁、エーリッヒ・アイク(救仁郷繁訳)『ワイマル共和国史T1917〜1922』(1983年、ぺりかん社)124頁を参照。
(28) Vgl. Ernst Rudolf Huber, Deutsche Verfassungsgeschichte seit 1789, Band W, Die Weimarer Verfassung, 1981, S. 59.
(29) フランケンシュタイン条項につき、G.イェリネク(Georg Jellinek)は「この条項により、各邦分担金制度(――Matriklarbeitraegeのこと。引用者注)はライヒ憲法(――ドイツ帝国憲法のこと。引用者注)第70条に違反して常設制度に引き上げられ、また第38条に違反して第38条に規定された租税収益1億3000万マルクを差引いた後に各支邦に割りあてられた。そのような実質的憲法を改正する法律にあって、憲法改正の形式が厳守されるという保障は、まったくない」と述べる{Georg Jellinek, Allgemeine Staatslehre, 3. Auflage, 1914, S. 538.(芦部信喜=小林孝輔=和田英夫他訳『一般国家学』〔第二版〕(1976年、学陽書房)434頁)}。
なお、フランケンシュタイン条項については、大野英二「ドイツ帝国主義と財政改革問題」『ドイツ資本主義論』(1965年、未来社)358頁も参照。
(30) 大野・注(29)358頁。大野があげる第二の理由は、労働運動の発展ないしドイツ社会民主党の勢力拡大に対抗するための社会政策の発展を意味するのであろう。
(31) 藤本建夫「社会帝国主義下のドイツ帝国財政」『ドイツ帝国財政の社会史』(1984年、時潮社)337頁。なお、ドイツ帝国時代の財政改革につき、詳細は、藤本・同書293頁、大野・注(29)357頁、野津高次郎『独逸税制発展史』(1948年、有芳社。復刻、1988年、文生書院)197頁を参照。また、武田公子『ドイツ政府間財政関係論――第二帝政期からヴァイマル期ゲマインデ財政を中心に――』(1995年、勁草書房)は、ドイツ帝国期における諸邦の税制改革、および同時期のゲマインデ税制改革を論ずる。
(32) 加藤栄一『ワイマル体制の経済構造』(1973年、東京大学出版会)100頁。
(33) 詳細は、野津・注(31)322頁を参照。
(34) Vgl. Hugo Preuss (herausgegeben von Gerhard Anschuetz, Reich und Laender, Bruchstuecke eines Kommentars zur Verfassung des Deutschen Reichs, 1928, S. 17.
(35) Vgl. Preuss (Anm. 34), S. 1f. この点については、小林昭三『ワイマール共和制の成立』(1980年、成文堂)40頁、E.コルプ(柴田敬二訳)『ワイマル共和国史――研究の現状』(1987年、刀水書房)30頁、初宿正典「フーゴ・プロイスとヴァイマル憲法構想」宮田光雄編『ヴァイマル共和国の政治思想』(1988年、創文社)139頁、アイク(救仁郷)・注(27)96頁、124頁、メンガー(石川他)・注(27)238頁を参照。
(36) Vgl. Preuss (Anm. 34), S. 21, und dazu Huber (Anm. 28), S. 55ff.; Otto Kimminich, Deutsche Verfassungsgeschichte, 2. Auflage, 1987, S.488f. ヴァイマール共和国がライヒ優位の連邦国家であったことは、ヴァイマール憲法第13条第1項(「ライヒの法律は州の法律を破る」)、第17条第1項(各州に対し、ヴァイマール共和国が採用する諸原則に基づく憲法を制定することを求める規定)、第18条第1項第2文(ライヒの法律による州の領域の変更または新たな州の設置を認める規定)、および第48条第1項(ヴァイマール憲法またはライヒの法律に違反する州に対して、ライヒが国防軍の助力を得て義務を履行させることを認める規定)の存在からも窺える。
(37) Vgl. Huber (Anm. 28), S. 59.
(38) Hensel (Anm. 26), S. 11.
(39) グスターフ・シュトルバー(大住龍太郎訳)『近代独逸経済史』(1941年、紀元社)141頁、加藤・注(32)123頁を参照。
(40) Hensel (Anm. 27), S. 27.
(41) エルツベルガー財政改革については、注(39)に掲げた文献をはじめとして少なからぬ文献を参照したが、州租税法について述べる邦語文献としては、K.−H.ハンスマイヤー編(廣田司朗=池上惇監訳)『自治体財政改革の理論と歴史――ヴァイマール期を中心として――』(1990年、同文館)39頁、武田・注(31)163頁が詳細である。また、伊東弘文「ヴァイマル共和国の成立とエルツベルガーの財政改革」北九州大学商経論集9巻2号(1973年)76頁、山田・注(11)205頁も参照。Vgl. dazu Albert Hensel, Grundsaetzliches zur Reform des Finanzausgleichsrechts, Nach einem Vortrag, gehalten am 5.April 1924, in der Jur. Studiengesellschaft Muenchen, StW 1924, S. 584ff.; Franz Menges, Reichsreform und Finanzpolitik, Die Aushoehlung der Eigenstaatlichkeit Bayerns auf finanzpolitischem Wege in der Zeitalter Weimarer Republik, 1971, S. 184ff.
(42) ライヒ租税通則法の立法過程を紹介する邦語文献として、須貝脩一=中川一郎「資料ライヒ租税法(邦訳)(一)」税法学5号(1951年)32頁を参照。なお、エルツベルガー財政改革における「租税改革案の多くは、エルツベルガーの創意によるものではない。しかし彼は、応能的負担の公平についての独自の理念と、エネルギッシュな行動力とによって国民議会と、邦国(――州のこと。引用者注)を代表するライヒ参議院とで、諸法案の通過のために尽力したのである」(伊東・注(41)64頁)。
(43) なお、佐藤・注(11)227頁は、Popitz (Anm. 1), S. 345 を援用しつつ「財政調整がドイツでなぜ発生したかについて、ポーピッツが多数の地域団体(この場合は中央政府をふくむ)の財政難をあげているのが示唆的である」と述べる(傍点は、原文傍点強調箇所)。
(44) Hensel (Anm. 26), S. 11. 引用文中における「1848年」は、フランクフルト・アム・マインのパウロ教会で行われた「ドイツ憲法制定国民会議」を指す。また、「若きドイツ共和国」とは、当然ながらヴァイマール共和国のことである。
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