財政調整法理論の成立と発展(2)

――アルベルト・ヘンゼルの財政調整法理論を中心に――

 

  (はじめに)これは、大分大学教育福祉科学部研究紀要第23巻第2号に掲載されたものです。

 

  【要旨】 財政調整を初めて法律学上の概念として取り上げたアルベルト・ヘンゼル(Albert Hensel)は,財政調整をいかなるものとして捉えたのか。本稿は,彼によって始められた財政調整法理論を分析し,その成立と発展を追うことにより,財政調整に対する法律学的な,かつ根本的な再検討を試みるものであり,今回は,スイスおよびドイツ帝国の財政調整(法)制度に対するヘンゼルの評価を中心に分析を加える。

  【キーワード】 財政調整,対象高権,収入高権,交付金,分担金

 

第2章     体系的(または概念的)財政調整法理論の提示(続)

 

  (2)当時の連邦諸国家における財政調整法制度(続)

  Cスイス連邦

  スイス連邦は,財政調整という語の発祥の地である。アメリカ合衆国憲法と異なり,連邦(Eidgenossenschaft)と州(Kanton; Stand)との協働を広く予定する1874年スイス連邦憲法は,いかなる財政調整法制度を予定していたのか。

  また,ヘンゼルは,スイスの財政調整法制度を,殊のほか詳細に検討している。彼によれば「これまでドイツにおいて,連邦国家における諸問題の解決をスイスによって明確に捉え,学問的に評価することがいかに少なかったかが際立って」いるが「スイスにおいては,ドイツと同様に,両連邦国家の創設史」における「著しい民族的,経済的,そして文化的な固有性との,様々な根幹の一体化が問題であった」1)。そのために「財政構造の領域の上においても,まさに,ドイツはスイスと同じ問題の前に置かれ」,「スイス連邦国家に関する研究は,我々を,ドイツ・ライヒにおける財政調整が有する国法上の意味の観察へ導く」2)。ヘンゼルは,スイス連邦における財政調整法制度に対する検討から何を得たのか。

  1874年スイス連邦憲法は,全州議会議員選挙の方法の決定を州に委ねていた。従って,この点に関して,憲法は分権主義的である。しかし,全州議会議員は,州政府および州の選挙者の委任代表ではない。その意味において,州が連邦の意思形成に直接的に関与する余地は,憲法改正の際を除いて,ドイツ帝国憲法下の連邦参議院におけるよりも小さい3)

  また,財政を除く諸領域について,連邦は,広い領域において権限を得たが,連邦法律の執行が州に委ねられるなど,州の関与も残された4)。尤も,州が独自に活動しうる領域は狭められた。なお,1898年になって第64bis条が追加され,同時に第64条が改正されることによって,連邦に,刑事立法および民事立法に関する無制約の権限が与えられる。

  そして,憲法が,連邦に,国家高権において広範な権限を与えたにもかかわらず,連邦の財政高権は限定されていた。連邦は,関税,郵便制度および電信制度などから主な収入を得ていたが,直接税の全ておよび間接税のかなりの部分は州の対象高権に属していた5)。連邦予算は,ほとんど関税収入に基づいていたほどである6)。また,租税システムは州により異なっており,これが連邦による全租税システムの統一を妨げていたようである7)

  また,憲法第42条第f号は,連邦の収入として「とくに州の租税力(Steuerkraft)に応じて」連邦の立法により詳細が定められる,州からの分担金(Beitraege; Geldkontingent; Geldskala)を掲げている。この分担金制度は,永続的なものとして規定されているが,実際に1874年憲法の下において利用されたことはなく,無意味なものとなった。この点において,諸邦分担金を暫定的な制度としていたドイツ帝国憲法第70条と異なる。後にみるように,諸邦分担金制度は,憲法の文言とは裏腹に,廃止されずに残ったのみならず,1904年に同条が改正されることにより,永続的な制度となり,ヴァイマール憲法の制定により,ようやく廃止に至ったのである。

  スイスにおいて,財政調整は「分権主義的な根本思想への有意義な光線(Schlaglicht)を投げかける,特別な簡明的確な意味」,すなわち,連邦により州の対象高権の一部が奪われた場合の「州から免れた収入のための,連邦による州への完全な補償」を意味した8)。そのため,スイスにおける財政調整は,連邦権力を創設する際の一時的な問題ではなく,憲法改正の都度に発生する問題であり9),財政調整により州の財政力までが減少させられる訳ではないということになる。連邦に何らかの財政権限が州から委譲されるとしても,それは,問題となる法領域の統一を目的とするものであり,連邦の財政力を強化することを目的とするものではないということになる10。仮に,州が対象高権の一部を失うとしても,その損失は,連邦により,例えば,連邦が課する兵役義務代替税のうち一定の部分を州に配分することを通じてカヴァーされ(1874年スイス連邦憲法第20条第3項を参照),あるいは,酒類専売から得られる連邦の収入が完全に州に帰属することによって(同第32bis条第4項),州の収入高権は確保されることとなる。連邦により州の対象高権が奪われ,或る意味において州への代償措置として財政調整(法)制度が成立・発展した点は,オーストラリアの状況と類似する11

  勿論,これまで取り上げてきた垂直的財政調整のみならず,水平的財政調整の存在を見落としてはならない。しかし,連邦が結成され,あるいは連邦憲法が制定される時点において,および,その後,連邦憲法などが改正され,または新たに連邦租税法律が制定される時点において,最初に問題となるのは垂直的財政調整である。

  こうした財政調整(法)制度の中核的な部分をなすものが,州の利用目的に対して拘束のない交付金制度,および,州の利用目的に対して拘束を伴う補助金制度である。スイスを例にとるならば,スイスの連邦権力が憲法改正の度に強化されることにより,連邦から州への交付金(補助金)の範囲が拡大される。これは,いかに連邦の財政高権が,当初は制約を受けていたとしても,連邦は,自らの財政高権,とくに対象高権を,徐々に拡大させたし,国家高権においても同様であった,ということを意味するものである。しかし,そればかりでなく,連邦の憲法や法律などにおいて連邦に立法権が与えられつつ,実際には州によって果たされるべき任務が拡大されているということを意味する12

  既にみた通り,ヘンゼルは,財政調整に「分権主義的な根本思想」という背景を見出す。しかし,この評価自体に誤りがないとしても,その思想の反面に集権主義的な思想傾向が存在しないのであろうか。財政調整は,財政高権の側面においても徐々に集権化していくスイスの財政調整法制度を表現しているものと思われる。「連邦による州への補償」という評価自体が,財政調整における集権主義的な側面を示している。

  さらに一般化するならば,財政調整という用語自体が,財政高権,とくに対象高権に関する中央集権化の産物と言いえないであろうか。先にみたオーストラリアの状況からして,あるいはスイスの状況からしても,連邦自体が構成国から対象高権を奪うことにより,連邦の財政高権は拡大され,さらに収入高権の拡大に至りうるということは明らかである。対象高権を制約される構成国は,国家としての任務を果たすために,租税などからの収入に依存せざるをえないが,対象高権が狭いままでは収入高権の確保も望めない。そのために,連邦からの交付金制度が問題とされざるをえない。財政調整という制度はともあれ,用語自体が,アメリカ合衆国ではなく,スイスにおいて最初に登場した背景には,連邦結成時から連邦自体の機能が強化されるという集権主義的傾向が存在し,これに対する分権主義的な歯止めをかけようとする動きがあったものと理解されうる13。換言するならば,財政調整とは,元来,財政(法)制度における,集権主義的傾向と分権主義的傾向との調整あるいは妥協(Ausgleich)であったと理解することが許されるであろう。

  (3)ドイツ帝国における財政調整法制度

  既に別稿において述べたように,ヴァイマール共和国との対比において,ドイツ帝国は「分権主義的連邦国家」(foederativer Bundesstaat)とも評される14。しかし,ドイツ帝国憲法に集権的傾向が存在しなかった訳ではない。ドイツにおける分権主義と集権主義との理念の対立がドイツ帝国憲法にいかなる形態にて現われたか,そして財政調整法制度にいかなる影響を及ぼしたのか。この点に関するヘンゼルの検討を概観し,検証する。

  @ドイツにおける分権主義から集権主義への展開

  ヘンゼルは,ドイツ帝国における三つの帝国最高機関のうち,皇帝および帝国議会を集権主義の現われとし,連邦参議院を分権主義の現われとする15。帝国創設当初,皇帝は単なる執行機関とされたのに対し,諸邦の代表からなる連邦参議院は立法権限を行使する機関として最も重要な意味を与えられた(但し,プロイセン邦の優越的地位を見逃してはならない)。帝国議会は連邦参議院の下に位置づけられるものでしかなかった。

  また,帝国と諸邦との権限配分においても分権主義的傾向が色濃く見られた。帝国憲法第四条は,帝国の立法権限の対象を個別的に規律し,比較的に大きな立法権限を帝国に認めた。しかし,重要な任務を諸邦の排他的立法権限に委ねる場合もあった16(帝国憲法は帝国の排他的立法権限に関する規定を置いていない)。

  こうして,ヘンゼルは,ドイツ帝国憲法においては分権主義と集権主義のいずれも決定的原則ではなく,むしろ双方の高度のバランスを理念としていた旨を述べる17。しかし,早くも1873年には憲法第4条第13号の改正を契機に,帝国の立法権限は拡大の方向をとる。この改正により,帝国の法的統一が促進されることになる(この年にドイツ民法典第一次草案の起草が開始された)。そして,司法・行政の両面においても,帝国自身の機関(例えば郵便および電信制度に関して)が創設されることにより,帝国宰相の地位の強化および帝国議会の存在意義の上昇ともあいまって帝国における集権的傾向は強まっていった。このことは,ドイツにおける国民意識の向上とも深い関係にある18。しかし,集権的傾向を過大評価することは許されない。帝国は諸邦分立の上に築かれ,関税・消費税など若干のもの以外に独自の充分な財源を有しえなかったし,帝国自身の租税行政機構はついに設立されなかったのである。

  Aドイツ帝国憲法における財政調整法制度

  ドイツ帝国憲法がいかなる財政制度を予定していたかということについては,既に別稿において概観した19)。ヘンゼルは,憲法において予定された財政調整法制度として諸邦分担金(Matrikularbeitraege)をとりあげ,検討を行う。

  帝国憲法第70条に規定される諸邦分担金制度は「帝国租税が導入されない限りにおいて」利用されるべきものであった。すなわち,この文言〔ミクヴェル条項(clausula Miquel)ともいう〕によれば,諸邦分担金は本来ならば補充的な需要充足手段であり,また帝国自身の租税,とりわけ直接税の導入も可能であった20。しかし,実際には,帝国が関税および消費税以外の租税を導入することはほとんどなく,諸邦分担金への依存を強める。このような現実を考慮したのであろう,ヘーネル(Albert Haenel)は,ドイツ帝国における諸邦分担金を,連邦により構成国に課される一種の租税と理解した21。これに対し,ラーバント(Paul Laband)は,憲法の文言に即し,諸邦分担金を分権主義的な帝国構築のための基礎と見做し,「帝国租税の導入までの一時的な」もので補足的に徴収されるにすぎないから租税ではないと述べる22

  ヘンゼルは,一般的に諸邦分担金制度がヘーネルの見解にもラーバントの見解にも与しないものであるとし,理念上のモデル23に従って考察すべきであるとして「拘束を受けた分担金システム」と「拘束を受けない分担金システム」との区別を説く。

  連邦国家が「拘束を受けた分担金システム」を採用する場合,(連邦国家における法的統一状態の達成を度外視すれば)財政システムは国家連合のシステムに近似することになる。逆に「拘束を受けない分担金システム」を採用するならば,諸邦分担金は一種の租税となる。すなわち,対象高権は構成国に残されるが収入高権は連邦に移される。しかし,「拘束を受けない諸邦分担金システムには,連邦国家の主な特徴である,臣民(Untertanen)に対する連邦の直接的な高権(Hoheitsgewalt)が欠けている。拘束を受けない分担金は,国家を含む国家(Staatenstaat)的な性格を有するのであり,連邦国家的な性格を有していない」24

  このような前提を述べた上で,ヘンゼルは,帝国憲法第70条が「拘束を受けない分担金システム」を採用するという解釈をとる。モデルに従えば,集権主義的性格を有することになる。その意味の限りにおいてヘーネルの見解を支持する。しかし,諸邦分担金制度は諸邦の対象高権の維持を前提としており,分権主義的性格をも有する。そのため,ドイツ帝国における諸邦分担金制度そのものは純粋に分権主義的性格も集権主義的性格も有しないとされる25(帝国憲法の文言によれば集権主義的傾向が強い)。

  たしかに,帝国憲法第70条が「拘束を受けない分担金システム」を採用するならば,帝国には「国民に対する連邦の直接的財政高権が欠けて」おり,帝国の財政高権は諸邦に対してのみ存在したことになる。そして,諸邦分担金の総額は帝国自身により決定されるのであり,その意味においては集権主義的傾向が強いとも言いうる。しかし,このシステムは諸邦の広範な対象高権を前提としており,諸邦から収入高権を完全に剥奪する訳でもない(仮に剥奪するとするならば,分担金システムの意味が失われる)。従って,「拘束を受けない分担金システム」は,なお分権主義的色彩を残す,否,そもそも分権主義的要素を前提としたシステムであると考えられる。ドイツ帝国が諸邦分立主義を採ったと評される一因には諸邦分担金制度がある,と理解せざるをえない。少なくとも,交付金制度に比して,諸邦分担金制度は,分権主義的傾向を強く帯びるものと解される。

  B第一次世界大戦終了までの財政調整法制度の変遷とヘンゼルの批判

  連邦としてのドイツ帝国は,その対象高権の拡張に努めた。例えば,1883年には帝国印紙法によって印紙公課システムが作られたし,1902年に公布された発砲酒税法は,諸邦の対象高権を,その部分に関して剥奪することになった。1913年には,帝国直接税としての財産税が導入される。対象高権について,さらに収入高権についても,帝国の権限は多少とも増大することになる。しかし,それは十分なものでなかった。

  また,帝国財政は,軍事費などの経費が増大し,諸邦分担金の増額によらざるをえなくなる。ビスマルクは,自由貿易主義から保護関税主義への移行により,関税収入を増加させ,諸邦分担金を廃止する意向を有し,同時に,諸邦分担金などに対する帝国議会の収入承認権を弱体化させることを目論んでいたようである。彼の意向はともあれ26,諸邦分担金が暫定的制度であり,しかも「拘束を受けない分担金システム」である以上,諸邦分担金の廃止は,構成諸邦の利益になるものはずであった。

  諸邦分担金を巡り,帝国議会において,フランケンシュタインとフォン・ベニヒゼン(von Bennigsen)の両議員が提出した案が,それぞれ審議される。フランケンシュタインの提案は,収入承認権の弱体化ないし喪失を恐れる帝国議会の空気を反映して,諸邦分担金の存続を提案した上で,関税収入などの過去3年間の平均額を超過する部分を諸邦に配分するというものである。これに対し,フォン・ベニヒゼンの提案は,諸邦分担金の廃止を前提とし,関税収入および消費税収入を,毎年,予算により確定した上で諸邦に配分するというものであった。結局,フランケンシュタインの案が(修正を受けつつも)採用され,1879年,フランケンシュタイン条項の成立となる。この条項の内容は,毎年,年間の1.3億マルクを超える関税および煙草税の収入が,各邦の分担金の基準となっている人口を基準として各邦に分与される,というものである。同様の規定はその後にも制定された。

  帝国憲法が,当初,分担金制度を規定していなかったという事実を念頭に置くならば,フランケンシュタイン条項は,交付金制度を創設したという意味において,実質的な憲法改正でもあった27。そればかりでなく,この条項は,後に述べる1904年の憲法改正に先立ち,実質的に分担金制度を恒久化したものと解することも可能であり,その意味においても実質的な憲法改正であると考えられる。

  帝国の財政調整法制度に,連邦から構成諸邦への交付金制度が加わったことにより,一連邦国家において,交付金制度と分担金制度という正反対の性格を有する両制度が併存することになった。同様の例は1874年スイス憲法にも存在するが,先に概観したように,スイスにおいて,憲法上の制度であるはずの分担金制度は,実際には利用されなかった。さらに,1904年,シュテンゲル(Stengel)による改革の結果として帝国憲法第70条が改正され,ミクヴェル条項は廃止された。これにより,当初は暫定的性格を与えられ,フランケンシュタイン条項により実質的に恒久化された諸邦分担金制度が,憲法上,明文の規定において永続的性格を確認されたことになる。

  フランケンシュタイン条項による諸邦への交付金は,毎年変動し,諸邦の意向に左右されることなく決定されるため,諸邦の予算は不確定なものになる。そればかりでなく,諸邦分担金は「月々の前払いであったのに対して」交付金は「四半期決算後六〜八週間経過後の後払いであった」28。そのため,交付金制度の新設は,帝国財政を複雑にし,構成諸邦にも多大な負担を強いることになる。1880年代には帝国の関税収入が上昇したため,交付金の額が分担金の額を上回っていたが,1890年代には諸邦分担金の額が分担金の額を上回るようになる。そのため,諸邦分担金を「拘束を受けた分担金システム」に変質させようとする動きが諸邦によってとられ始めた。1903年から,構成諸邦は「一定の確たる総額を超える限りにおいて」諸邦分担金を「猶予され」,しかも,実際に徴収されずに「帝国により,借款に引き継がれた」29

  ヘンゼルは,このような諸邦分担金の変質について「当初は集権主義的であった帝国の権力要素から,次第に,結果として分権主義的な制度に」なったと評価するが,このことは「いかに,帝国に与えられた財政権限を,帝国が十分に利用しなかったか」を示すものとも述べる30。そして「帝国財政政策の本来的な欠陥は,債務の絶対的な額において根拠づけられて存在するのではない。大部分は必然的な支出のための補償問題を新たな収入の開拓によって解決する代わりに,軽率にも,帝国の財政政策とともに債務が増加した」ことにあると,厳しく批判している31。彼自身は明確に述べていないが,カナダ,オーストラリア,スイスなどのように,連邦自体が,とくに対象高権を着実に伸長させることこそ望ましいと考えたのであろう。

  このように,ヘンゼルは,ドイツ帝国における帝国(連邦)の国家高権の発展と財政高権の発展との齟齬に,ドイツ帝国崩壊の,少なくとも一つの重要な原因を見出した。彼は,ドイツ帝国の財政問題において「国家物質主義」(Staatsmaterialismus)が支配的であったと考えた。連邦としての帝国の発展からすれば,帝国は,自らの対象高権を拡大することも可能であった。しかし,各邦,さらに国民に負担(犠牲)を求めることをおそれ,外交政策により,問題を先送りにした。ヘンゼルによれば,第一次世界大戦とともに,こうした傾向は悪化した。帝国は,全く増税政策をしなかった訳でもないが,主に,勝利を戦時債務に頼ることとなり,結局はこれが敗戦,そして帝国崩壊の一因になったのみならず,戦後のハイパー・インフレーションをも引き起こした。ヘンゼルは,このような現実を前にして,帝国時代に濃厚にみられた分権主義的思想,そしてそれに基づいた財政調整(法)制度を,とりわけ諸邦分担金制度を批判したのである31

  (4)『国法上の意義における連邦国家内の財政調整』における理論の完成

  ヘンゼルは,当時の連邦諸国家における財政調整(法)制度を概観した結果として,「連邦諸国家の憲法においては,一方では国家高権の,他方では財政上の権限の,配分における一致は,一般的に認められない」という命題を引き出す32。「国家は単にその財政上の能力の総体にすぎず,財政高権は国家高権の忠実な鏡像である」という国家経済上の公理は,ここにおいて明確に否定されたことになる。

  それでは,ヘンゼルによる財政調整法理論は,いかなる完成形態を示すのであろうか。

  まず,連邦と構成国との関係,とくに財政システムにおける関係を考える必要がある。ヘンゼルは,連邦国家における市民間の(租税)負担の平等を強調し,連邦の財政権力と構成国の財政権力との関係(および制約)が連邦憲法により確定されることを要請する33。その上で,両権力(システム)の分離に,紛争の回避という長所を認めつつも,両権力の範囲を明確に区分することの困難さを指摘した上で,実際の問題として連邦には関税および間接税(公課),構成国には直接税(公課)の対象高権および収入高権が帰属することになり,連邦の財政システムが拡大することにより負担の不均衡が拡大されることを短所としてあげる。両権力の分離を維持するためには,両権力の範囲が憲法によってそれほど厳格に制約しないこと,連邦租税に排他性が与えられること(これは当然の結果である),財政において安定性が高いこと,これらが要件とされることになる34

  しかし,多くの連邦憲法において,アメリカ合衆国憲法のごとき分離システムではなく,交付金制度などを規定する結合システムが採用されるのは,構成国間の財政力などの格差によるところが大きいと思われる。こうした格差は,連邦国家内の国民における租税(公課)負担の格差として,また,社会政策などに関する受益の格差として現われやすくなるであろう。分離システムでは,こうした格差を是正することが難しいものと思われる。

  それでは,結合システムを採用するとして,いかなる制度が望ましいのであろうか。分担金システムについてのヘンゼルの見解は,否定的である。彼によれば,分担金制度は,非常時において突然に生ずる財政上の困難を克服するための一時的な制度として,あるいは,当初ドイツ帝国憲法第70条において予定されていたような暫定的制度としてならば,有用たりうる。しかし「個々の州が有する財政システムの様々な形態が」連邦国家全体の「全財政システムの内部における同等の負担配分の要求に矛盾しているので」永続的な制度として存在すべき余地はないとされる35

  むしろ,ヘンゼルは「連邦国家的財政システムの必然的中央集権化が,交付金システムの利用によって最も良く実現される」と述べ36,交付金システムに重点を置く。

  ヘンゼルによる財政調整法理論は,ひとまず完成し,以後,ヴァイマール共和国期を通じて発展していくことになる。一方,ヴァイマール憲法体制の下,財政調整に関する法律は,1920年3月20日の州租税法に始まり,1923年6月23日の州租税法改正法律により「財政調整法」と名称が改められた後も幾度かの改正を経ながら,やはり幾度かによるライヒ大統領による租税緊急命令(Steuernotverordnung(en))とともに,現実の財政調整を決定する。ヘンゼルは,ヴァイマール共和国期の財政調整法制度をいかなるものとして捉えていたのか。これについては,第3章において検討することとしたい。

 

  1)Albert Hensel, Der Finanzausgleich im Bundesstaat in seiner staatsrechtlichen Bedeutung, 1922, S. 77f. 原文には隔字強調箇所があるが,引用に際して省略した。

  2)Hensel (Anm. 1), S. 100.

  3)Hensel (Anm. 1), S. 81f.

  4)ちなみに,第9条によれば,州の国際法上の権限が完全に排除されてはいない。

  5)Vgl. Fritz Fleiner, Schweizerisches Bundesstaatsrecht, 1923, S. 649f.

  6)Fleiner (Anm. 5), S. 650は「連邦の全支出のうち80%以上が,最終的に関税収入から賄われた」と指摘する。

  7)Vgl. Hensel (Anm. 1), S. 89.

  8)Hensel (Anm. 8), S. 91. 「補償」はEntschaedigungの訳語であるが,Ausgleichという語も「補償」の意を有する。Vgl. Fleiner (Anm. 5), S. 650.

  9)尤も,このこと自体は,スイスのみの問題ではない。

  10Hensel (Anm. 1), S. 92.

  11)森稔樹「財政調整法理論の成立と発展(1)―アルベルト・ヘンゼルの財政調整法理論を中心に―」大分大学教育福祉科学部研究紀要23巻1号56頁も参照。

  12)スイスにおける,連邦から州への補助金は,Hensel (Anm. 1), S. 96f.において図示されている。連邦憲法に根拠を求めるべきものが存在する他,連邦が州に支払うか否かが連邦の任意に委ねられているものもある。

  13)財政調整(法)制度の成立・発展は,国民国家思想の形成と,何らかの(おそらくは密接な)関係があるのではないかと思われる。しかし,現段階において,私は確証を得ていない。

  14)森稔樹「アルベルト・ヘンゼルの財政調整法理論―ドイツ財政法理論史研究序説―(一)」早稲田大学大学院法研論集81号(1997年)255頁を参照。なお,この評価は,Ernst Rudolf Huber, Deutsche Verfassungsgeschichte seit 1789, Band W, Die Weimarer Verfassung, 1981, S. 59によるものである。

  15Hensel (Anm. 1), S. 102.

  16Hensel (Anm. 1), S. 103.

  17Hensel (Anm. 1), S. 104.

  18Vgl. Hensel (Anm. 1), S. 105f. C.F.メンガー(石川敏行他訳)・ドイツ憲法思想史(1988年,世界思想社)214頁も参照。

  19)森・註14254頁を参照。

20)帝国憲法第35条および第4条第2号を参照(直接税に関する言及がない)。帝国が直接税を導入する可能性を有していたことは,帝国憲法の草案作成にも関係した当時のプロイセン邦大蔵大臣フォン・デア・ハイト(von der Heydt)が帝国議会において行った演説においても語られていたという(Hensel (Anm. 1), S. 115, Fn. 1は,Wilhelm Gerloff, Die Finanz- und Zollpolitik des Deutschen Reiches, 1913, S. 20を引用しているが,同書を参照しえなかった)。Paul Laband, Das Finanzrecht des deutschen Reiches, Annalen des deutschen Reiches 1873, Sp. 456ff.も,帝国憲法第70条により直接税を導入する可能性を認めていた。

  21Vgl. Albert Haenel, Deutsches Staatsrecht, 1. Band, 1. Auflage, S. 369, 375f.

  22Vgl. Paul Laband, Deutsches Reichsstaatsrecht, 5. Auflage, 1909, S. 381, 404ff.; ders. (Anm. 20), Sp. 519ff.; ders., Matrikularbeitraege, DJZ 1914, S. 2ff.

  23Siehe Hensel (Anm. 1), S. 22ff. 森・註1151頁も参照。

  24Hensel (Anm. 1), S. 120, und siehe S. 24. なお,国家を含む国家(Staatenstaat)は「単一の支配的な上級国家の下における,単一または複数の国家の国際法上の服従関係」を指す(Creifelds Rechtsworterbuch, 13. Auflage, 1996, S. 1141)。G. Jellinek, Allgemeine Staatslehre, 3. Auflage 1914 (4. Neudruck, 1922), S. 748f.{芦部信喜他訳『一般国家学』〔第二版〕(1976年,学陽書房)607頁は,さらに詳しく説明する。長くなるが,引用しておく。

  「これは,国家結合(Staatsverbindungen)の国法的形式を意味している。ある主権国家が,自国に従属している国家に対して支配権を行使し,これに対して従属している国家の方で,上級国家によって設定された限界内でみずからの組織を自由に定め,かつ,対内的には広汎な独立を保持しているが,しかし対外的には,その従属性のゆえに大きな制限を受け,かつ,上級国家に対して,軍事上の協力の義務,または少なくとも,経済上の寄与(貢納)の義務を負うている場合が,これにあたる」。そして「この結合形体の特徴は,上級国家の政治生活と下級国家のそれとの間に,なんらの必然的関連も存在しておらず,こうした共通関係を表現すべき制度も原則として存在していない,というところにある。したがって,このような国家を含む国家は,組織されない国家結合の類型に完全に属しているか,もしくは圧倒的に属している,といえる。下級国家の領土および国民が,上級国家の権力に服従するのは,原則として,間接的であって,下級国家の権力を媒介として上級国家に従属するのが原則である」。

  25Hensel (Anm. 1), S. 121.

  26)鈴木純義『ドイツ帝国主義財政史論』(1994年,法政大学出版局)12頁は,諸邦分担金を廃止して帝国直接税を導入することにより,帝国議会の収入承認権が「拡大」する「という議会主義的中央集権主義の主張が登場するのは当然であ」り,収入承認権の「拡大そのものは,間接税率を毎年の予算で確定するという方法によっても可能であった」と述べる。

  27Vgl. Hensel (Anm. 1), S. 132, Fn. 2.

  28)鈴木・註2613頁。Vgl. Hensel (Anm. 1), S. 134.

  29Hensel (Anm. 1), S. 136.

  30Hensel (Anm. 1), S. 137, 140.

  31Hensel (Anm. 1), S. 140.

  32Siehe naher Hensel (Anm. 1), S. 169ff.; Paul Kirchhof, Albert Hensel, Forscher eines rechtsstaatlich gebundenen systematischen Steuerrechts Zum Oktober 1983, StW 1983, S. 361.〔三木義一訳「アルベルト・ヘンゼル―法治国家的に拘束され,体系化された租税法の研究者―」静岡大学法経研究331号(1984年)118頁〕; derselbe, Albert Hensel (1896-1933), Ein Kaempfer fur ein rechtsstaatlich geordnetes Steuerrecht, in: Helmut Heinrichs / Harald Franzki / Klaus Schmalz / Michael Stolleis (Hg.), Deutsche Juristen juedischer Herkunft, 1993, S. 788. 森・註1148頁も参照。

  33Hensel (Anm. 1), S. 146. 原文には隔字強調箇所があるが,引用に際しては省略した。

  34Vgl. Hensel (Anm. 1), S. 148f.

  35Vgl. Hensel (Anm. 1), S. 149f.

  36Hensel (Anm. 1), S. 152.

  37Hensel (Anm. 1), S. 153f. 原文には隔字強調箇所があるが,引用に際しては省略した。

 

(2001年11月6日掲載)

戻る