アルベルト・ヘンゼル追悼文
Steuer und Wirtschaft (StW) 1933, Teil T, Sp. 1353 und 1354に掲載(無署名)。
今年(1933年)の10月18日、イタリアへの研究旅行中に、教授アルベルト・ヘンゼル博士が、心臓病のために逝去された。
彼の死は、法学にとって、とりわけ租税法にとって、重大な損失を意味する。雑誌「租税と経済」(Steuer und Wirtschaft)は、 その最も著名な協力者を失った。
ヘンゼルは、1895年に、有名な数学者クルト・ヘンゼルの息子として生まれた。1914年8月に、彼は、第10バイエルン野戦砲兵連隊とともに前線に向かう。この連隊において彼は一年志願兵として勤務した。そして、ロートリンゲン※におけるすべての野戦に参加した。そこで彼は負傷したが、その後すぐに再び前線に向かった。ソンムの戦闘の後、ヘンゼルは重い病にかかったため、度々、新たに前線に向かおうと試みても、戦争中の残りの期間は故郷において勤務した。
1919年、ヘンゼルは、司法修習生(Referendar)試験に「秀」(Auszeichnung)の成績で合格した。一年後、彼は、ベルリンにて優等で(summa cum laude)博士の学位を取得した※※。1922年、彼は「連邦国家における財政調整とその国法上の意義」(Finanzausgleich im Bundesstaat und seine staatsrechtliche Bedeutung)に関する研究※※※により、ボン大学で教授資格を得た。その一年後には、既に、ボン大学における、官職にある員外教授(außerordentlicher Professor)であった。1929年、正教授(Ordinarius)として、ケーニヒスベルク大学※※※※からの招聘に応じた。
ヘンゼルの学問上の活動について、一つの像を与えることは容易でない。それについての判断を下すことはまさに困難であり、そしておそらく、彼のごとき人、諸事物の上に立つ者にのみ可能であろう。ヘンゼルは、若かったが巨匠であった。租税法に関する著作における彼の発言、および、この雑誌における諸論文を追求する者は、いかに彼が簡潔に把握する術を心得ているか、いかに彼が―租税法の発展のためになされた彼の絶えず新しい論述が想起されなければならない―本質的なものを適切に表現したのか、いかに完全に素材を支配していたかを理解するのである。その際、彼の素材は扱いにくく、近寄りがたいものであった。しかし、ヘンゼルは勇敢に、最も困難な領域に明晰さを持ち込んだ。財政調整、租税回避のドグマティーク、営業税、租税の統一化、公的企業の課税、権利保護、ライヒ租税通則法第201条による情報提供義務、そして、租税法を超え、部分的には橋を築き結びつけるもの、公法の概念形成への租税法の影響、ライヒ財政裁判所と国法、自由裁量と法律の下の平等、基本権と裁判(ライヒ裁判所のための記念論文集において)、基本権と政治的世界観、ドイツにおける地方自治法と地方自治政策、予算法という、標語としてのものを参照されたい。ヘンゼルの主要な作品は、その租税法であったし、そうあり続ける。教科書ではない、彼自身が表現したように、学問的に体系化された叙述であり、それでも成熟した者にとっては最も価値の高い意味での教科書である。1924年、1927年、そしていまや再び1933年に、勇敢な、み探求の領域での、あらゆる期待を超えて達成された冒険である※※※※※。既に最初の仕事は驚嘆に値するものであるが、最後の版における進歩はさらに驚嘆に値する。一度、短くまとめられた、利益の概念および利益の確定(租税収支決算および商業収支決算;租税貸借表および営業貸借表)に関する論述、240〜248頁を読まれたい。素晴らしい出来である。
ヘンゼルは、専ら国内の諸事情の把握に満足することはなかった。ソビエト連邦の財政問題、およびアメリカ合衆国憲法とそのヨーロッパにとっての意味に関する業績が想起されなければならない。あらゆる悲嘆があっても、それを和らげる何かが存在する。死は、故郷から遠かろうと、最も完全な創作の喜びの中であっても、探求の旅をしている間に、一瞬のうちにヘンゼルを突然襲った。彼が、その最も独特の研究領域を不知の諸状況および情勢の探求および解明によって深化させるという任務に、ひたむきに従事していた最中だった。
こうして、法学は、この追悼文のはじめの部分で述べられたように、ヘンゼルの死去によって多くのものを失った。ヘンゼルに、生涯において親密さを増すことを許されたもの、そして、彼の可能(Können)の他に彼の本質(Wesen)を、とくに彼の非常に快い慎ましさを知った者は、より多くのものを失う。ヘンゼルの追想に栄誉あれ!
訳注
※ 現在はフランスの領土であるロレーヌのドイツ語名。1871年のドイツ帝国成立以降、エルザス(フランス語ではアルザス)とともにドイツ領であったが、第一次世界大戦の敗戦とともにフランスに割譲された。
※※ この追悼記事には、ヘンゼルの博士論文名(Staatshoheit und Finanzhoheit)が登場しない。この論文は、私が検証した限りにおいて、ヘンゼル自身も全く言及しておらず、後にヘンゼルについての小論を記したパウル・キルヒホーフ(Paul Kirchhof)教授も、論旨を紹介していない。なお、1917年または1918年に、ヘンゼルはBeethoven, Der Versuch einer musik-philosophischenという論文を、単行本としてベルリンの出版社Jatho-Verlagから刊行している(私の知る限り、日本では東北大学が所蔵している)。機会があれば邦訳を試みたいと考えている。
※※※ 残念ながら、この追悼記事に書かれているヘンゼルの教授資格論文名は誤りである。正式にはFinanzausgleich im Bundesstaat in seiner staatsrechtlichen Bedeutungである。直訳すれば「国法上の意味における連邦国家の財政調整」とでもなろうか。私自身は、これまで公表した論文において「連邦国家における財政調整とその国法上の意義」と訳している。
※※※※ 哲学者カントで有名な大学である。ケーニヒスベルクは東プロイセンの代表的な都市であったが、第二次世界大戦にドイツが敗れたことにより、当時のソビエト社会主義共和国連邦領となり、カリーニングラードと改称された。現在はロシア共和国連邦の領土である。
※※※※※ ヘンゼルの代表的な著書である教科書『租税法』(Steuerrecht)は、本文中にあるように、1924年に第一版が、1927年に第二版が、そして1933年(ヘンゼルの没年)に第三版が出版された。昭和6年に、杉村章三郎博士による邦訳が『獨逸租税法論』として有斐閣から刊行された(これは第二版の邦訳である)。ドイツでは、1986年に第三版の復刻版が発売された。
付記:この追悼文においては一切触れられていないが、ヘンゼルはユダヤ系の出自であり(そのために記事には書かれていないのであろう)、晩年にイタリアへ研究旅行に赴いたと書かれているが、1933年にヒトラーが権力を掌握したことを考え合わせると、亡命の可能性、あるいは亡命先を探すための旅行の可能性も否定できない。この年に『租税法』第三版が出版されたこと、そして、この追悼記事が掲載されたことには、或る種の驚きを禁じえないが、当時は、NSDAPによる反ユダヤ政策がまだ本格的に実行されていなかったことを裏付けるのかもしれない。
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