行政法小演習室・その1 解説など
T.誤っている記述はCである。不可争力は、一定の期間が経過することにより、行政行為をめぐる当事者のうち、私人の側から、行政行為を行った行政庁または裁判所に対して取消しを求めることができなくなることをいう。根拠は行政事件訴訟法第14
条に求められる。あくまでも私人の側に強いる効力なのであって、一定の期間が経過して私人の側が取消しを求められなくなっても、行政庁が行政行為を取り消すことは可能である(また、監督権の行使の一環として、上級行政庁が取り消すことも可能とされている)。但し、Dの記述にあるように、紛争を解決するためになされる行政行為(裁決や審決など)については、不可争力のみならず、不可変更力が伴うこともある。この場合には、仮に違法であったとしても、行政庁自らが取り消すこともできない(そのため、Dの記述も正しい)。なお、行政庁のみならず、裁判所などをも拘束する効力を実質的確定力というが、これについては賛否両論が存在する。
@の記述は正しい。公定力は、まさにこのようなものとして説明されるものである。
Aの記述も正しい。身分確認訴訟および俸給支払訴訟は、分限免職処分の効力を否定するという前提に立つものである。そのため、分限免職処分が(無効でなければ)先決の問題として裁判所をも拘束することになり、分限免職処分が取り消されていないのに身分確認訴訟や俸給支払い訴訟が提起されたとしても、裁判所は却下せざるをえないこととなる。
Bの記述も正しい。(自力)執行力は、元々、行政行為によって命じられた義務を私人が履行しない場合に、行政庁が裁判の判決を得ないで、いわば行政行為自体が法的根拠となって、私人に義務の内容を強制的に実現させ、あるいは自ら実現して私人に費用などの負担を求めることを指している。大日本帝国憲法時代は、行政執行法などが存在しており、強制執行に関する法律が整備されていたこともあって、(自力)執行力が行政行為に当然に付随する効力であるかのような説明がなされてきた。しかし、行政行為の内容・効力そのものと強制執行の内容・効力は、本来、別次元の問題であり、それぞれに法的根拠が必要なものと理解すべきである。日本国憲法の下においては、あらゆる行政行為に応じて強制執行手段が認められている訳ではないので、(自力)執行力が全ての行政行為に付随するということにはならない。
U.公法と私法との関係、そして公法関係と私法関係との区別は、行政法学の研究対象そのものの範囲と関係があり、古くから議論がなされており、現在も続いている。
行政法を「行政に関する法全般」と定義するのであれば、公法と私法との区別を論じる必要性はほとんどなくなるが、その場合であっても、実際には、民事法と共通する法原理が適用される領域と、行政に関する固有な性質を有する法との区別を完全に否定することはできない。公法と私法との区別に関する歴史的な経緯などについては説明を省略するが、従来、行政法学は、主に権力説に立脚しつつ、公法と私法との区別を前提にして、公法関係と私法関係について論じてきた。
ここで、公法と私法との区別に関する説を概観しておく。これについては様々な考え方が存在するが、大別すると主体説、利益説、権力説とに分かれる。
主体説は、国、(地方)公共団体などの行政主体を当事者として予定する法を公法と捉える。単純明快ではあるが、これでは国や地方公共団体が一当事者となる民法上の法律関係なども公法関係となるなど、個別的・具体的な行為の法的性質をうまくとらえられなくなる。
利益説は、公益と私益との区別を前提としつつ、公益に関する法を公法と捉える。これは、法学(大学で法学、法学概論などという名称の科目として扱われる分野)においては通説であると思われる。しかし、公益と私益との区別のメルクマールを何に求めるかという大問題があるし、国や地方公共団体が一当事者となる民法上の法律関係を私法関係と捉えるという矛盾がある(公益を目的とすると考えるならば公法関係になるはずであるが)。
(1)公法関係は、元来、行政庁の意思の優越を前提として、一方的あるいは権力的に行われる活動、すなわち、両当事者が対等な関係にない活動に関する法的関係を指した。ヴァルター・イェリネク流に言えば「本来的公法関係」である。歴史的にみれば、行政活動には警察行政(権)、税務行政(権)などのようなものしか存在しなかったことが背景にある。
これに対し、私法関係は、両当事者が対等な関係をもって結ぶ法的関係のことであり、民法や商法などによって形成される法的関係を指している。
しかし、行政が水道事業や公有財産の管理などを行う場合、本質的には私法関係と変わらない。そうであれば、私法関係として捉えることも可能である。とは言え、これらの事業も公益を目的とするものとして扱われるため、水道法や会計法など、私法の原理を修正する規律が多くなされている。そこで、本質的には私法関係と同様であるが、公益の実現(これには、国民の生存権の確保なども含まれる)を第一の目的として行われる活動に関する、行政主体を一当事者とする法的関係を管理関係というのである。ヴァルター・イェリネク流に言えば「伝来的公法関係」である。この場合には、法の規定による限りにおいて、私法原理の修正あるいは否定がなされることとなる。
(2)公法と私法とを絶対的に区分する説も存在するが、古くからの通説はこうした考え方を採らず、相対的区分説を採用する。民法には、信義誠実の原則などの法の一般原則や、期間の計算方法などの技術的なものなど、あらゆる分野に共通する技術的な事項も規定されており(但し、民法に信義誠実の原則などが規定されたのは戦後になってからである)、かようなものまで公法関係において否定する必要もないからである。しかし、民法第177条のように、私法関係における両当事者の利害の調整を目的とする規定については、見解が分かれうる。公法・私法の区別を前提とするならば、民法第177条は、公権力の発動たる農地買収処分に適用されない(この他、民法の債権法の規定のうち、その多くが適用されないということになる)。
最大判昭和28年2月18日民集7巻2号157頁は、自作農創設特別措置法に基づく農地買収処分について、同法の趣旨目的からして農地の強制買い上げという性質を持ち、民法上の売買と本質的に性格を異にするという理由から、民法第177条の適用を否定する。しかし、これに対しては、何故に民法第177条の適用が否定されるのか、その理由が不明確であるという批判をなすことが可能である。
こうした事情は、大判大正7年7月31日行録29輯871頁についても同様であり、土地の収用裁決は、登記簿上の名義人という外形に基づいてなされるものではあるが、収用裁決が公益のためになされるのであって私人間の紛争を解決するためになされるのではないということで、民法第177条の適用を否定したものと考えられる。
(3)最一小判昭和35年3月31日民集14巻4号663頁は、租税滞納処分としての公売処分について、民法第177条の適用を認めている。この判決は、滞納者の財産を差し押さえた国の地位を、民事訴訟法上の強制執行における差押債権者の地位になぞらえ、共通する部分を見出す。そして、租税債権が公法上のものであることが、民法第177条の適用を左右するものではないとする。
農地買収処分と租税滞納処分は、民法第177条の適用について結論を異にすることになる。これについては、農地買収処分が実体的な権利義務関係を形成するものであるのに対し、租税滞納処分が、既に形成されている権利義務関係を強制的に実現するために行われるものである、という点に根拠を求める説が存在する。このように、法律関係の性質を詳細に検討した上で民法第177条の適用の有無を判断するのであれば、公法・私法の関係を敢えて持ち出すまでもないものと思われる。
V.(1)と(2)に共通する問題は、行政法において信義誠実の原則ないし信頼保護の原則が適用されるべきであるのか、適用されるとすればその範囲はいかなるものか、ということである。適用されるとしても、事案などによっては法律による行政の原理と抵触する場合がありうるため、調整を必要とすることになる。
信義誠実の原則は、法の一般原則の一つであり、戦後になってから民法第1条第2項に明文化されたものである。これに対し、信頼保護の原則について、多くの論者はとくに信義誠実の原則と区別していないようであるが〈その典型として、塩野宏『行政法T』〔第三版〕(2003年、有斐閣)72頁〉、区別する見解もある〈芝池義一『行政法総論講義』〔第4版〕(2001年、有斐閣)61頁〉。
塩野・前掲書72頁は、信義誠実の原則が行政法にも適用されるとした上で「行政法の場面では、典型的には行政機関の言動を信頼して行動をしたものの保護が問題とされるので、信頼保護原則としてまとめることができる」と述べる。これに対し、芝池・前掲書61頁は「信頼保護が一定の行政活動に対する信頼の存在を前提とするのに対し、信義誠実の原則は必ずしも特定の行政活動との関連で語られるものではない。この意味で、信頼保護の原則のほうが狭い観念であるといえよう」とした上で「この信頼保護の原則は、確固とした内容(すなわちその適用が認められる要件やその効果)をもっていない。その理由は、それが新しい原則であること、およびこの原則の適用が問題となる状況が多様であることにあろう」と述べている。
(1)の事案は、租税法律主義と信義誠実の原則ないし信頼保護の原則との関係が問題となっている(但し、それは課税行政庁側の行為に対する信義誠実の原則ないし信頼保護の原則の適否である)。租税法律主義を徹底すると、信義誠実の原則ないし信頼保護の原則の適用は結果としての違法をもたらすが、法的安定性(信頼の保護の要請)を軽視することになる。また、公平負担の原則を前提とすれば、信義誠実の原則ないし信頼保護の原則の安易な適用は問題である(新井隆一教授が否定的な見解を述べるのは、この点に由来する)。
東京地判昭和40年5月26日行裁例集16巻6号1033頁は、問題に示したものと類似の事例について、信義誠実の原則の適用を認め、差押処分を取り消した。しかし、これは東京高判昭和41年6月6日行裁例集17巻6号607頁によって取り消され、原告の請求を棄却した。
これに対し、学説においては、租税法の領域についても信義誠実の原則ないし信頼保護の原則の適用が認められる、とする説が多い。但し、無限定に認められるのではなく、一定の要件が必要とされる。金子宏教授は、次のようにまとめられる〈金子宏『租税法』〔第九版〕(2003年、弘文堂)132頁〉。
a.「租税行政庁が納税者に対して信頼の対象となる公の見解を表示したこと」。この場合の「公の見解」には、法令の解釈に関する見解も含まれる。また、表示の仕方としては、通達の公表のように納税者一般に対するものでもよく、申告指導のように個別の納税者に対するものでもよい。但し、全ての税務職員の発言などが該当するということではないと解される。
b.「納税者の信頼が保護に価する場合で」あること。
c.「納税者が表示を信頼しそれに基づいてなんらかの行為をしたこと」。
(2)の事案は、(1)と異なり、法律による行政の原理と正面からぶつかり合うようなものではない。その意味においては、信義誠実の原則ないし信頼保護の原則が適用されやすい事例であるとも言える。地方公共団体が、住民の意思に従い、自らが作った企業誘致施策を変更すること自体は、何ら違法ではない(むしろ、地方自治の本旨を考えるならば、自由に認められるべきである)。しかし、企業が施策に乗じて資本や労力を投下した後にその政策が変更された場合に、重大な不利益を受けてまでこれを感受する必要があるのか。これが問題である。
(2)の事案の場合、議会が村有地の譲渡を内容とする議決を行っていることなどが決め手となっていると思われる。また、村長が交代してから、一方的にこれまでの施策を変更することによって企業が莫大な損害を被った場合には、施策の変更そのものまでを違法とするのは行き過ぎであるとしても、損害を放置し、甘受させるのも妥当とは言えないであろう。その意味においては、信義誠実の原則ないし信頼保護の原則の適用は認められるべきであると考えられる。
但し、この場合、最高裁判例と同様に民法第709条による不法行為責任→損害賠償責任を認めるのか、施策の変更そのものは適法なのであるから損失補償(この場合の損失補償は、積極的な損害に対する補填に限定する)によるべきであると考えるのか、などの説が存在することには、注意が必要である。
W.法律による行政の原則が妥当するということは、単に、行政に対して法律の執行機能に留めることを意味しない。とくに、現代国家は行政効果であると言われるように、立法府によって行政の機能を完全に拘束するようなことを期待することは不可能に近い。そこで、行政の自己決定の余地(意思形成の余地)を多少なりとも認めざるをえないのである。
この設問では、行政裁量についての基礎的な事項を確認するという目的を含めている。とくに、いつ、いかなる場合に裁量が認められるのか、裁量権の行使の限界は何か、という問題が重要である。
(1)これは、行政の判断過程における裁量の存在場所に関する問題である。
要件裁量とは、認定された事実を法の構成要件にあてはめる段階において認められるとする裁量のことであり、行政行為の根拠となるべき(構成)要件の充足について行政権が認定権を有する場合のことである。大日本帝国憲法期に提唱された要件裁量説は、この段階についてのみ行政に裁量権を認める考え方である。
この場合に最終的な認定権というような表現が用いられることもあるが、文字通りに解するべきではないと考える。
これに対し、効果裁量とは、行政行為をするのかしないのか、するのであればいかなるものをするのかについての裁量のことである。いわゆる美濃部三原則は、この効果裁量に関する考え方であり、不利益処分(賦課的行政行為)については自由裁量行為ではありえない/利益処分(授益的行政行為)については、法律がとくに私人に対してその利益を要求する権利を与えている場合を除き、原則として自由裁量行為である/直接的に私人の権利義務に関係のない行為は、法律がとくに制限を加えているものを除いて、原則として自由裁量行為である、というものである。効果裁量説は、要件裁量を認めない。従って、法の適用段階においては、不確定概念などが用いられようとも司法審査の対象となりうることとなる。
しかし、現在の判例・学説は、要件裁量説、効果裁量説のいずれかを採用するというのではなく、事案に応じていずれかの裁量を、場合によってはいずれの裁量をも認める。かつて、判例は効果裁量説に従っていたとも考えられるのであるが、最大判昭和
53年10月4日民集32巻7号1223頁などが典型であるように、要件裁量をも認めるようになっている。それだけでなく、要件裁量説よりも裁量の認められる範囲が広くなっているとも指摘される。また、このことから、羈束裁量行為と自由裁量行為との相対化が進行しているとも考えられる。(2)裁量行為といえども全く違法性などから自由である訳ではない。むしろ、行政事件訴訟法第30条にも示されているように、裁量権の逸脱または濫用が認められる場合には、行政庁の裁量権の行使は違法と評価され、結果としてその行為も違法となる。裁量の逸脱または濫用が認められると考えられる場合は、次のようなものである。
a.重大な事実誤認:これは、何も裁量行為についてのみ妥当する訳ではない。
b.目的違反ないし動機違反:法律の趣旨・目的に沿わない裁量権の行使は違法となる。恣意的な目的による裁量権の行使も違法である。これについての代表的な判例として、東京地判昭和44年7月8日行裁例集20巻7号842頁(ココム事件)がある。また、最二小判昭和53年5月26日民集32巻3号689頁(余目町個室付浴場事件)も、行政権の裁量権の行使に動機違反があるとした例である。
c.平等原則違反:これについては、最二小判昭和30年6月24日民集9巻7号930頁を参照。この判決は、裁量権の行使に平等原則による限界があることを述べている(但し、結論としては適用が認められなかった。それは事案の性質によるものであろう)。
d.比例原則違反:これは、基本的に効果裁量について問題となる。公務員の懲戒処分に対する裁量権の行使の妥当性が比例原則との関係において問題となりうるが、最三小判昭和52年12月20日民集31巻7号1101頁(全税関神戸事件)は、比例原則について否定的とも言える態度を示している(これに対し、環裁判官の反対意見は、比例原則を念頭に置いたものであると考えられる)。
e.手続的統制方法:これは、実体判断について正面から取り組むのではなく、手続面について統制を加えることによって、行政決定の公正さを担保するとともに、違法性が問題となる場面を少なくしようとするものである。この方法を採用した代表的な判例として、最一小判昭和46年10月28日民集25巻7号1037頁(個人タクシー事件)がある。現在では行政手続法・行政手続条例が存在するので、手続的統制方法の意義は高まっているものと考えられる。
f.審査密度の向上:これは、行政の判断過程に裁判所の審理を及ぼすことによるものであり、手続的統制というよりは実体的統制に近く、上記の目的違反ないし動機違反にも結びつく。代表的な例が東京高判昭和48年7月13日行裁例集24巻6・7号533頁(日光太郎杉事件)である。また、最近では札幌地裁平成9年3月27日判例時報1598号33頁(二風谷ダム訴訟)がある。
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