第一部 日本国憲法における、財政に関する基本的原則
02 財政民主主義、租税法律主義
1.財政民主主義
国民主権(民主主義)の原理からすれば、当然、財政が国民・住民の意思に基づき、国民・住民の利益となるように運営されなければならない。
財政は、本来、行政作用としての内容を有する(憲法第73条第5号、第86条および第87条を参照)。しかし、行政権の恣意的な処理・運営は、国民主権(民主主義)の原理に反する。憲法第83条が「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」と定めるのは、日本国憲法が代表制民主主義を採用することからの、当然の帰結である。
但し、上記は通説によるものであり、その主張に対して、日本国憲法の解釈上、疑義が存在する。財政民主主義は、代表制民主主義を採用する日本において財政国会主義(財政議会主義)として現れる。たしかに、日本国憲法は、予算の作成権限を、国会ではなく、内閣に認めており、予算の執行など、財政の処理権限も内閣などに与えられている。しかし、憲法の諸規定を概観すれば明らかなように、最終的な権限は国会に与えられていることからすれば、財政を単純に行政作用と表現してよいことにはならない。このことは、予算の法的性格に関する議論において、具体的に問題となるであろう。
第83条にいう「財政を処理する権限」は、文字通り、財政に関するあらゆる権限を指す。従って、租税の賦課・徴収など―財政の権力的作用―に限られず、金銭の借り入れ、支出、財産の管理などの権限も含む。また、貨幣制度、貨幣発行をも含むと解されている。
また、ここでいう「国会の議決」には、単なる議決のみならず、法律を定めることなどの意思表示も含まれる。なお、国の支出や債務負担行為については、個別的かつ具体的な意思表示が求められる。
財政民主主義は、憲法における財政関係の諸規定の、まさに根幹をなす。第84条に規定される租税法律主義も財政民主主義からの帰結である。そればかりでなく、次のような規定に生かされている。
(1)第85条(第87条を含む)
第85条は、国費支出行為、国の債務負担行為の全てについて、国会の議決を必要とする旨を定める。国費の支出であれ、債務負担であれ、最終的には国民の負担に帰する点に変わりはない。そこで、このような規定が置かれる。大日本帝国憲法時代にもこの趣旨の原則は存在したが、例外が多く、徹底していなかった。それに対し、日本国憲法では、第87条に規定される予備費以外に例外を認めていない。しかも、予備費の支出については、内閣が事後に国会の承諾を得なければならないとされている(同条第2項)。
憲法第87条第1項は「予見し難い予算の不足に宛てるため、国会の議決に基いて予備費を設け」ることができると規定する。この場合、予備費を設けることについては国会の事前承諾を得なければならない。しかし、この承諾は支出に対するものではない。具体的な手続は財政法第36条に規定される。なお、第87条第2項の事後承諾は、予備費の支出行為に対して何らの法的効果もないと解されている。また、条文には「国会の承諾」と規定されているにもかかわらず、両議院一致の議決は不要と解されている。
(2)第86条
予算の作成権が内閣にあることを示すとともに、予算についての最終的決定権が国会にあることを示す規定である※。これも財政民主主義の一環である。また、会計年度独立の原則(予算単年度主義)、会計統一の原則、総計予算主義、予算事前議決の原則も示される。
※小嶋和司「日本財政制度の比較法史的分析」『憲法と財政制度』(1988年、有斐閣)22頁は、第86条と第83条との矛盾を指摘し、その原因を分析している。また、同「財政―予算議決形式の問題を中心として―」同書184頁、とくに248頁以下を参照されたい。
予算制度の詳細については後に取り上げることとして、ここでは、財政法第14条の2に定められる継続費について述べておく。継続費は、工事や製造など、完成に数年度を要するものへの支出に関する経費である※。大日本帝国憲法第68条は、明文で継続費を認めていたが、濫用され、議会の審議権(統制権)が非常に弱められる結果となった。しかし、実際の便宜を考慮すると全く不要とも言い切れないため、財政法に追加されたのである。このことから、杉村章三郎博士は「予算不成立の場合の措置や継続費の存在は現行憲法の下においてもその必要が感ぜられるのであり、この点に何らの規定を設けなかったのは現行憲法の欠陥といえるであろう」と述べる※※。私もこの見解に賛同する。継続費の濫用を戒めるのであれば、むしろ憲法の明文で限界などの基本線を示せばよいのである。
※但し、実際には、防衛省による大型警備艦の建造などに利用される程度でしかない。
※※杉村章三郎『財政法』〔新版〕(1982年、有斐閣)17頁。槇重博『財政法原論』(1991年、弘文堂)160頁を参照。
しかし、継続費については違憲説も存在する。憲法第86条が「毎会計年度の予算」と明示しているからである。これに対して、合憲説は、憲法が明文で継続費を否定していないこと、会計年度は必ずしも1年に限られないこと、などを主張している。
合憲説の主張にも難点がある。まず、会計年度は必ずしも1年に限られないというのは、憲法の構造を無視する議論である(第52条、第90条第1項を参照)。また、財政法第14条の2は、継続費について厳格な要件を付し、国会の再審議などを規定するのであるが、継続費の修正には限界があるとも指摘されている
※。※兵藤広治『財政会計法』(1984年、ぎょうせい)66頁。
いずれにせよ、財政こそ、緊急事態を想定した規定を盛り込まなければならないのに、そのような規定が全く存在しないということは、立憲主義、財政民主主義の観点からしても、 日本国憲法が抱える欠陥の一つであるとも評価できよう。
(3)第88条
大日本帝国憲法時代には皇室自律主義がとられた。皇室は、御料地や御料林などの形で自ら莫大な財産を所持し、国から支出される皇室経費も、増額を除いて帝国議会の議決を必要とされていなかった。日本国憲法第88条は、これを根本的に改め、皇室財産を国有化するとともに、皇室経費についても完全に国会の統制下に置くという意味を有する。具体的な事柄については皇室経済法が規定する。なお、この規定は、皇室に私有財産を全く認めないという趣旨ではない。
三種の神器は皇室の私有財産である。また、天皇および皇族も、相続税の納税義務者となる。
(4)第89条
この規定が財政民主主義の一環を示すものであると言いうるか否かについては、おそらく、議論の余地があるものと思われる。しかし、財政民主主義も、元はといえば国民主権原理の一環であり、さらに、基本的人権の尊重という憲法の基本原理と深い関係を有する。その意味において、憲法第20条に規定される政教分離原則を財政の面から担保する第89条は、国会および内閣に対し、財政権限の行使に制約を課する規定である。
この規定で問題となるのが、後段の「公の支配」である。これに属しない慈善、教育、博愛の事業に対する財政支出などが禁止されるが、その趣旨も表現も明確ではないからである。
これについては、私立学校振興助成法や社会福祉法などによる補助(助成)を合憲と解釈するために公費濫用防止説が主張される(この説が通説であろう)。この説によると、公の財産がこれらの私的事業に支出された場合、仮に私的事業の自由に委ねられるとすれば、公共の利益に反する運営が行われるおそれがあるため、補助(助成)をなす限度において、それが不当に利用されることのないように監督することが求められる。すなわち、こうした監督に服しない私的事業に対する公の財産などの支出や利用を禁止する、というのである。
この説明は、橋本公亘『日本国憲法』〔改訂版〕(1988年、有斐閣)546頁を基にしている。
一方、厳格に解する説として、自主性確保説がある。この説によると、憲法第89条後段に掲げられた私的な慈善、教育、博愛の事業は自主性を有するのであり、これらに対して公権力が干渉することを禁止するというのである。そのため、この説によると、私立学校、社会福祉法人などへの補助(助成)は違憲となる可能性が高くなる。自主性確保説に対しては、前段における宗教と、後段における慈善、教育、博愛とは、国家との分離の程度が異なるという批判がある。
第89条の文言解釈からすれば、自主性確保説が妥当であろう。しかし、この説を採るならば、第25条や第26条の趣旨と矛盾しかねず、結局は生存権や教育を受ける権利などを無にするような結果に導かれかねない。また、憲法第20条第3項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定するが、これはあくまでも国(さらに地方公共団体)が主体的に一切の宗教活動をすることに対する禁止規定であり、宗教団体(法人)に対する禁止規定ではない。仮に宗教法人が直に運営する学校法人について自主性確保説の趣旨を実行すれば、第26条、さらには第14条に違反することになりかねない。
公費乱用防止説、自主性確保説のどちらも成立しうるだけに、第89条は趣旨・目的も表現も不明確であり、第86条とともに日本国憲法の欠陥を示すものとみることが最も妥当な解釈であろう。いわゆる護憲派は、この規定についても改正を不要とするのであろうか。そうであるとすれば無責任な見解と評価せざるをえないであろう。
(5)第90条
この規定と第91条は、決算に関する基本原則を定めた規定であり、第90条は会計検査院の根拠規定である。また、会計検査院は、憲法上の機関であるとともに、内閣から完全に独立している行政機関であり、憲法第65条の例外をなす。
決算は法規範性を有しないものとされているが、予算に示された歳入および歳出が適正に行われているか否かを検討することは、財政民主主義の現実化のためにも重要な意義を有する。このため、決算は、閣議決定の後に会計検査院によって検査を受け、その報告とともに国会に提出され、国会の審査を受けることとなる。
(6)第91条
これも財政民主主義を決算の面において具体化させる趣旨の規定である。財政状況公開の原則を示したものと理解されている。なお、この規定では、内閣が「国会及び国民に対し」て定期的に「報告しなければならない」とされているが、主たる対象者は国会より国民であると理解すべきであろう。その意味において、第91条は国民主権原理に由来するものであると考えることもできる。
なお、決算については、第二部において検討することとしたい。
2.財政民主主義に関する現実の問題
日本の財政制度において、憲法第83条との関係で問題となる制度が存在する。とくに、財政法第3条の規定などは、憲法第83条との関連において重大な問題をはらむ。このため、憲法第83条については後に再び取り上げることになるが、ここでは代表的なものを取り上げ、若干の検討を行う。
(1)財政投融資
文献は数多いが、ここでは、遠藤湘吉『財政投融資』(1976年12刷、岩波新書)、宮脇淳『財政投融資の改革―公的金融肥大化の実態―』(1995年、東洋経済新報社)を、参考書としておく。
国家の第二の予算ともいわれる財政投融資とは「毎年度策定される財政投融資計画に基づき、必要な財政資金を出資や貸付けの形で供給する政府の投融資活動をいう」※。実際上、運用は財務局財務事務所(省庁再編前は大蔵省理財局)が行っている。投融資先は公社・公団などの特殊法人それ自体、あるいはその特殊法人が行う事業である。財政投融資の原資としては、産業投資特別会計、政府保証債・政府保証借入金という、国家予算の一部を成すものと、資金運用部資金(郵便貯金や厚生年金・国民年金から集めたもの)、簡易生命保険資金という、予算の一部を成さないものがある。予算の一部を成さないものは、租税とは異なることから、国会の議決の対象とはならず、財政投融資計画が、予算審議のために提出される国会の参考資料となるにすぎない。但し、運用期間が5年以上の資金については、予算として国会の議決を経ることとされている。しかし、それも不十分であることが指摘される。
※園部逸夫=大森政輔編『新行政法辞典』(1999年、ぎょうせい)405頁[早坂禧子担当]による。
しかし、財政投融資は、事実上、予算の一部として運用されており、これがなければ財政が十分に機能しない。また、運用の実態として、行政機関の意思に委ねられていること―とくに、族議員が裏で働いている場合―、国鉄清算事業団や国有林野事業など、返済困難が予想される分野に融資がなされている、あるいは、なされていたことが、問題としてあげられる。国民の負担増を招く結果となりかねないからである。少なくとも、財政投融資計画自体も国会の議決を必要とすべきであろう。
(2)補助金と「隠れた補助金」
国などが、特定の行政目的・政策目的のため、私人や地方公共団体などに無償の金銭的給付を行うことがある。これを補助金という。補助金の支出自体は予算の一部として国会の議決を経てなされるが、執行については法律の根拠を欠く場合がある。
また、補助金ではないが同様の機能を持つものを「隠れた補助金」という。具体的には、租税特別措置法に定められた租税特別措置をいう。これも、特定の行政目的・政策目的のため、特定の経済部門や個人に対して、租税を軽減・免除する、あるいは特別控除をなすというものであり、特定の企業がこれによって大きな利益を得ている。そのため、そのしわ寄せが一般国民に来るのである。しかも、軽減や免除などの具体的な金額が国会の議決の対象になっていない場合がある。
3.租税法律主義
租税法律主義は、民主主義の根幹を成しており、自由主義を経済的に担保する原則である。新井隆一教授によれば、租税法律主義は「私有財産制度の基礎に立つ個人の絶対的財産権に対する国の侵害を、個人の社会的・政治的・経済的自由を保障するために、法律に留保しようとする要請に基づいて生じたものである、ということができる。それゆえ、租税法律主義は、罪刑法定主義とともに、法における近世自由主義思想の一表現である、とされているのである」
※。。しかし、また、或る意味において、現実において非常に難しい問題を孕むこともある※※。※新井隆一『租税法の基礎理論』〔第三版〕(1997年、日本評論社)56頁。
※※租税法律主義に関する最近の論考の例として、小山廣和「租税法律主義」日本財政法学会編『財政法講座1 財政法の基本問題』(2005年、勁草書房)157頁を参照。また、佐藤英明「租税法律主義と租税公平主義」金子宏編『租税法の基本問題』(2007年、有斐閣)55頁も参照。
(1)租税の法的定義
日本においては、租税についての法的定義がなされていない。しかし、国家(および地方公共団体)が国民から徴収する財貨(金銭など)は、租税ばかりでなく、負担金、手数料などの形式をとる場合もある。従って、或る程度、租税のメルクマールを明らかにしておく必要がある。
ドイツのライヒ租税通則法(公課法。Reichsabgabenordnung)第1条第1項:「租税とは、特別の給付に対する反対給付ではなく、給付義務につき法律が定める要件に該当するすべての者に対し、収入を得る目的をもって公法上の団体が課する一回かぎり又は継続的な金銭給付をいう。関税はこれに該当するが、行政行為を特別に請求することに対する手数料及び負担金(受益者負担)は、これに該当しない。
」訳は、田中二郎『租税法』〔第三版〕(1990年、有斐閣)1頁による。
ドイツの租税通則法(公課法。Abgabenordnung)第3条第1項:「租税とは、特別の給付に対する反対給付ではなく、法律が給付義務について定める要件に該当する者に対し、公法上の団体によって収入を得るためにのみ課される金銭給付をいう。収入を得ることは副次的目的たりうる。関税および農産物輸入関税(Abschöpfung)は、この法律における租税である。」
日本においては、上記の定義(とくにライヒ租税通則法第1条第1項)を基として、法律学などにおいて様々な定義がなされている。例をあげておく。
「租税とは、国又は地方公共団体が、その課税権に基づき、特定の給付に対する反対給付としてではなく、これらの団体の経費に充てるための財力調達の目的をもって、法律の定める課税要件に該当するすべての者に対し、一般的標準により、均等に賦課する金銭給付である」
※「国(または地方公共団体)が、国の主権に服する者から、公的・一般的収入の目的をもって、法律(または条例)に定める要件を充足する事実があり、金銭的給付義務が確定するときに、強制的に、収納する金銭的給付である」※※
「国家が、特別の給付に対する反対給付としてではなく、公共サービスを提供するための資金を調達する目的で、法律の定めに基づいて私人に課する金銭給付である」※※※
※田中・前掲書1頁。
※※新井・前掲書2頁。
※※※金子宏『租税法』〔第十八版〕(2013年、弘文堂)8頁。
(2)租税のメルクマール
既に概観したとおり、統一的な定義がなされていないのが現状である。これは、後に述べる租税観、さらに言うならば国家観の相違によると考えられる部分もあるが、多くは表現上の問題である。これらの定義に共通する部分を見出せば、租税のメルクマールを明らかにすることができよう。
かような定義などに対して、北野弘久博士は、「法認識論のレベル」における定義と「法実践論のレベル」における定義とが区別される必要があると述べる。その上で、北野教授は「従来の租税概念は、明治憲法のもとでのそれを、日本国憲法のもとにおいても無批判的に踏襲してきたものである」と述べ、「明治憲法のもとでと同じレベルで日本国憲法のもとでの税財政に関する法概念・法理論を構築することは学問的には誤謬である」と批判する。
北野弘久『税法学原論』〔第六版〕(2007年、青林書院)25頁。
租税のメルクマールについては、次のように整理することができる。
この整理は、主に佐藤進=伊東弘文『入門租税論』〔改訂版〕(1994年、三嶺書房)1頁による。また、より一般的に、肥後和夫編『財政学要論』〔第4版〕(1993年、有斐閣)115頁[西村紀三郎担当]、片桐正俊編『財政学―転換期の日本財政―』(1997年、東洋経済新報社)209頁[長沼進一担当] など、財政学の諸文献も参照。
第一に「根本的に公権力を背景とした強制性をそなえていること」である。しかし、これだけでは手数料や負担金と区別し難い。
第二に「無償性」である。手数料は、国家などによる何らかの特定の給付に対する反対給付である(例えば、公園の入場料などを考えること)。負担金は、例えば宅地開発のように、開発などによって利益(手数料の場合よりも、より一般的な利益)を受ける者に対し、その利益に着目して課されるものである。従って、手数料および負担金の場合には「無償性」が認められないことになる。但し、実際には、目的税、その中でも自動車取得税・入猟税・水利地益税などのように、負担金との区別がつきにくいものもあるし、都市計画税のように曖昧な性格を有するものもある。なお、Adolf Wagnerは租税に「一般的報償性」を認めたが、Fritz Neumarkにより批判された。
第三に「道具的性格」である。租税は、第一次的に国家の資金調達を目的とするものである(かつてはこれがメルクマールとして強調されていた)。すなわち、国家自身が財貨などを得る場合が多いのである。しかし、国家が租税を徴収しつつも、その徴収額を第三者に譲渡することもある(地方交付税、補助金など)。また、経済政策、景気政策などの手段に用いられることもある(最近では自動車取得税などにおいて、環境政策の一環として用いられることがある)。
第四に「一連の租税の調達過程における課税の一方的性格」(徴税手続などにおける権力的要素など)である。現在、租税は私人の法定債務であるという説が有力である(通説か?)。私もこの説を支持するのであるが、これは税額・税率が法定されているという実体法的観点に着目したものであり、租税の徴収という手続法的観点からすれば、申告納税という方法が多くの租税において採られているものの、更正、推計課税、さらに税務調査など、権力的な側面が強いことも否めない。
そして、第五に、法律の根拠を要することである。近代立憲主義において、私有財産の不可侵は重要な原則である。この原則は現代立憲主義において若干の修正を受けたが、日本国憲法は、私有財産制度の存在を前提とし、私有財産の保護を規定する。しかし、租税は、上述のように、国民から強制的に、直接的な反対給付を伴うことなく徴収されるものである。従って、課税権の行使は、国民の財産権に対する一方的な侵害にあたる。そのために、恣意的な課税権の発動がなされてはならない。
また、本来ならば租税こそが国家の資金調達の最終手段でなければならないが、近年は公債に依存する傾向が大きい。日本は代表的であり、先進国の中でも最悪の水準である。
但し、ここで注意しなければならないことがある。上記における租税の定義は、租税法学あるいは財政学におけるものであり、行政の観点からのものということもできる(租税、手数料、負担金などは、それぞれ根拠法規を異にするし、取扱も異なる)。しかし、日本国憲法第84条における「租税」の意義については、別に考えなければならない(後述)。
(3)何故に、私人は租税を負担する義務を負うのか?
難問ではあるが、租税の正当化の根拠について触れておきたい。古くから様々な議論が展開されているが、財政学などにおいて、大きく二つの見解が存在する。
一つは、利益説(対価説)であり、自然法思想や社会契約説を背景とする。この考え方によれば、国家の目的は私人の身体と財産を保護することであり、租税は、私人が国家から受ける利益の対価である。従って、私人の租税負担は、私人が国家から受ける利益の程度に対応して配分されるべきであるということになる。応益負担に結びつき、比例税率に結びつきやすい。
もう一つは、義務説(犠牲説)である。この考え方は、利益説を非現実的かつ非実際的とする批判から生まれたものであり、ドイツ国民経済学・国法学において主張された。この考え方によれば、国家はその任務を履行し達成するために当然に課税権を有し、国民は当然に納税義務を負う。従って、この説によれば、私人の租税負担は、私人が国家から受ける利益の程度に対応して配分される必要はないということになる。そして、この考え方は、応能負担に結びつきやすいが、逆に権威的国家思想にも結びつく可能性も高い(現にその傾向があった)。
(4)租税法律主義の意義
憲法第84条は、租税法律主義を明定する。なお、第30条において国民の納税義務が定められているが、ここにおいても「法律の定めるところにより」という文言があるように、両規定は表裏一体の関係にあると言いうる。
第84条からも明らかであるように、新たな租税を国民に課し、または従来からの租税負担を変更するには、必ず国民、少なくとも国民を代表する機関である国会の同意を必要とすることになる。その理由は、既に述べたように、私人の租税負担が、財産権に対する国からの一方的な侵害を意味するからであり、また、徴収手続に権力的要素が強く、私人の財産権のみならず人格権(名誉権)さらには人身の自由に対する侵害の危険性が高いからである。
(5)憲法第84条の「租税」
それでは、憲法第84条にいう「租税」とは何か。上述の租税を指すことは言うまでもない。問題は、それ以外のもの―手数料・負担金など、強制の要素を含むもの―である。これは、具体的には財政法第3条の規定の意味との関係において問題となる。
財政法第3条によれば「租税を除く外、国が国権に基いて収納する課徴金及び法律上又は事実上国の独占に属する事業における専売価格若しくは事業料金については、すべて法律又国会の議決に基いて定めなければならない」。
通説は、財政法第3条を憲法第84条の要請と考える※。従って、この説によれば、憲法第84条にいう「租税」は、国が自らの収入のために国民に対して一方的かつ強制的に課する金銭負担全般ということになり、手数料や負担金を含むことになる。
※芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』〔第五版〕(2011年、岩波書店)350頁を参照。この点に関しては、拙稿「租税法律主義・地方税条例主義の射程距離(上)―旭川市国民健康保険条例訴訟最高裁大法廷判決の検討を中心に―」税務弘報54巻12号(2006年)137頁も参照。
しかし、この説は、文理解釈からして苦しい。次に、近年の有力説から「財政法三条にいう『法律又は国会の議決に基いて』とは、憲法84条にいう『法律又は法律の定める条件による』とは異なって、具体的な金額または金額算定基準まで直接法律によって定められなければならないとまで要求するものではなく、料金などをとる根拠や金額を決定する手続を法律や国会の議決で定め、その手続による決定をも容認する趣旨であるので」通説によれば「財政法三条は違憲となるはずであ」ると批判される※。
※この批判は、佐藤幸治『憲法』〔第三版〕(1995年、青林書院)180頁による。野中俊彦=中村睦男=高橋和之=高見勝利『憲法U』〔第5版〕(2012年、有斐閣)337頁も、ほぼ同じ趣旨である。なお、この批判は、小嶋和司「実定財政制度について」『憲法と財政制度』(1988年、有斐閣)345頁に由来する。
近年の有力説は、財政法第3条を憲法第83条の要請と考える。従って、この説によれば、憲法第84条にいう「租税」は、上述の租税のみを指すことになる※。この説は、文理解釈としても無理がない。また、租税とその他の負担との性質の差異に着目するという点において、妥当と考えられる。 しかし、この説は、租税以外の公課についても可能な限り立憲主義的統制の下に置くことが望ましいという観点に立つならば、決して十分な内容のものとは言えないと考えられる※※。
※例、佐藤・前掲書180頁。なお、槇・前掲書71頁は、財政法第3条を租税法律主義の箇所で説明しているが、「憲法制定の際には、憲法83条の財政処理の基本原則に基づくとさえ政府が強調した」とも述べている。
※※このため、私は通説を採ることとしている。拙稿・前掲138頁を参照されたい。
これに対し、少数説は、財政法第3条を憲法上の要請ではなく、立法政策上の規定と解する※。通説の矛盾を突く点に対しては評価しなければならないが、財政民主主義の観点を欠落させているところに問題があり、妥当ではない。
※小嶋・前掲書345頁。また、小村武『予算と財政法』〔四訂版〕(2008年、新日本法規)38頁は、財政法第3条と憲法第84条との関係について、次のように述べる。
「仮に財政法第三条を憲法第八十四条の当然の帰結とすると、論理的には、『財政法第三条の特例に関する法律』は行政府に対して白紙委任を行っているわけであるから、憲法違反にならざるを得ないと考えられる。むしろ、財政法第三条の特例に関する法律を国会が可決成立させたということは、財政法第三条が憲法第八十四条の当然の帰結とは考えられず、創設的な規定であるとの考え方に立脚するものと考えられる。」
実際には、財政法第3条は、昭和23年の「財政法第三条の特例に関する法律」により適用が停止(あるいは修正)されている。この法律(一箇条しかない)によると「政府は、現在の経済緊急事態の存続する間に限り、財政法(昭和二十二年法律第三十四号)第三条に規定する価格、料金等は、法律の定め又は国会の議決を経なくても、これを決定し、改定することができる」こととされている。本来であれば、「財政法第三条の特例に関する法律」は物価統制令の廃止とともに効力を失うはずであった(昭和23年の附則第2項)※。しかし、当初は煙草の価格、通信料金、日本国有鉄道の運賃と限定されながらも、次第に適用範囲を拡大していった。しばらくの間、「郵便、郵便貯金、郵便為替及び郵便振替に関する料金」以外の手数料、負担金などは「法律の定め又は国会の議決を経なくとも」よい旨が規定されていた。平成14年、日本郵政公社法が制定されるとともに改正を受け、「郵便、郵便貯金、郵便為替及び郵便振替に関する料金」が削除された。このため、財政法第3条は完全な死文になっている。
※物価統制令は、もともと、ポツダム宣言の受諾に伴う勅令として1946(昭和21)年に出されたものであるが、1952(昭和27)年の「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く経済安定本部関係諸命令の措置に関する法律」第4条により、法律としての効力を有するものとされている。
以上の観点からすれば、「財政法第三条の特例に関する法律」は財政法第3条以上に違憲性が強い、否、ますます強めてきたと思われるが、通説から違憲説は提唱されていない。
以上の議論に関して、意外にも忘れられているのは、大日本帝国憲法第62条の存在である。同条第1項は「新ニ租税ヲ課シ及ヒ税率ヲ変更スルハ法律ヲ以テ之ヲ定ムヘシ」と宣言しつつも、第2項は「但シ報償ニ屬スル行政上ノ手数料及其ノ他ノ収納金ハ前項ノ限ニ在ラス」と定めていた。
なお、租税負担の変更とは、増税(税率・税額の上昇)を意味することは当然であるが、減税(税率・税額の下降)をも意味する。減税が全ての国民の利益になるとは限らないからである。
租税特別措置法により、各種の租税の減免が行われているが、特定の業種・階層などのみを対象とすることもあり、負担の平等などの観点から問題になることが多い。
(6)国税の租税法律主義と地方税の地方税条例主義
地方公共団体は、地方税法の定めるところに従って課税権を有し(地方税法第2条)、地方税の税目や課税対象などを条例により定めなければならない(同第3条第1項)。地方税条例主義がとられている訳である。それでは、地方税条例主義は、憲法上、何処に根拠を求めうるのか。
かつての通説は、憲法第84条にいう「租税」は直接的に地方税を含むものではないが、規定の趣旨が及ぶと考えた。従って、この説によると、地方税条例主義は租税法律主義の例外であるということになる。しかし、地方税を住民に賦課するのであれば、地方税は、当該地方公共団体の住民代表機関である議会が制定する条例に基づかなければならないのであるとすれば、租税法律主義と基本的な趣旨は異ならない。そのため、地方公共団体の課税権は憲法第92条および第94条に由来し、憲法第84条もこのことを予定していると考える説が通説化しているようである。
もっとも、この説は大きく二つに分割される。一つの考え方として、第84条が地方税についても適応されるという考え方がある。もう一つの考え方として、第84条は地方税に対して適用されないとする考え方がある。
前者の考え方の例として、小林孝輔=芹沢斉編『基本法コンメンタール憲法』〔第四版〕(1997年、日本評論社)351頁[牧野忠則担当]を参照。後者の考え方の例として、新井隆一『財政における憲法問題』(1965年、中央経済社)33頁、金子・前掲書89頁を参照。なお、小林孝輔=芹沢斉編『基本法コンメンタール憲法』〔第五版〕(2006年、日本評論社)393頁[三木義一担当]、拙稿「地方税立法権」日本財政法学会編『財政法講座3地方財政の変貌と法』(2005年、勁草書房)29頁も参照。
(7)租税法律主義からの派生原則
租税法律主義からの派生原則として、あるいは、租税法律主義の具体的な内容としてあげられるものについては、見解が分かれる。もっとも、租税法律主義の派生原則として説明されていないものであっても、説明の便宜などによって別の箇所で扱われるのであって、本来であれば派生原則として理解されるべきものも存在する。ここでは、さしあたって金子・前掲書68頁の説を基本として、それぞれの原則(主義)の内容、および関係する論点に触れておくこととする。
@「課税要件法定主義」
これは罪刑法定主義にならって作られたものであり、全ての課税要件、租税の賦課・徴収手続が法律によって規定されなければならないという原則である。
地方税の場合は地方税条例主義がとられる。地方税法第2条・第3条を参照。
この原則については問題が多い。まず、法律と行政立法との関係である。法律の根拠がないのに政令や省令によって新たに課税要件に関する定めを置き、または変更することは認められない。政令や省令が法律に違反することも許されず、法律に違反する政令や省令の効力は生じない。もっとも、憲法は、第73条第6号において執行命令および委任命令の存在を認めている。その意味においては、課税要件や賦課・徴収手続に関する規定について法律が政令・省令に委任することは許される。しかし、白紙委任のような一般的・包括的な委任は憲法第41条に反する。個別的かつ具体的な委任が求められているのである。
大阪高判昭和43年6月28日行裁例集19巻6号1130頁を参照。この判決に関する解説・批評として、北村喜宣「政令への委任の限界」金子宏=水野忠恒=中里実編『租税判例百選』〔第3版〕(1992年、有斐閣)8頁などがある。なお、水野忠恒=中里実=佐藤英明=増井良啓編『租税判例百選』〔第4版〕(2005年、有斐閣)においては取り上げられていない。次に、税務行政において通達の役割は大きく、税務署も税理士も、法律ではなく通達により動いているほどである。また、法律の定める課税要件を通達が実質的に変更していることも多い。旧物品税法の下、パチンコ遊技機が長らく非課税とされていたが通達により課税されたという事件につき、最判昭和33年3月28日民集12巻4号624頁は、通達の内容が旧物品税法に適合していることなどを理由として課税処分を合法としたが、通達によって扱いが変更されたことこそが問題であるなどとして、批判が強い。たとえ従来の扱いが誤っていたとしても長期にわたってその扱いが継続した場合、一片の通達によって扱いが変更されることは、実質的に、通達によって法律の内容が変更されることを意味する場合があり、租税法律主義に反すると考えるべきであろう。
A租税法規不遡及の原則
新しい法律、または既存の法律の改正規定を施行する際に、施行日より前になされた行為への適用を認めることは、法的安定性や予測可能性の観点からすれば好ましくない。とくに、施行前の行為に対して不利益な効果を及ぼすことは、国民の権利・自由の保障の要請に真っ向から反することとなる。刑事法の領域においては、罪刑法定主義の一内容として、行為時には適法であった行為を事後の立法により処罰することは許されないとする刑罰不遡及の原則が存在し、憲法第39条にも明文で定められている。この趣旨を租税法の分野に取り入れたのが租税法規不遡及の原則であり、課税要件法定主義から発展または派生した原則と考えてよい。
しかし、租税法規不遡及の原則は、刑罰不遡及の原則と異なって日本国憲法において明文で定められていないこともあって解釈上の原則とも考えられ、次のように見解が分かれる。
第一説は、独立した派生原則として扱うか否かはともあれ、納税義務者の信頼保護、法的安定性や予見可能性の阻害を防ぐという意味で、憲法第84条および第30条に定められる租税法律主義の内容または派生原則として租税法規不遡及の原則を理解する。
田中・前掲書105頁、金子・前掲書110頁、佐藤英明・前掲書56頁、64頁、清永敬次『税法』〔新装版〕(2013年、ミネルヴァ書房)24頁、北野・前掲書98頁、水野忠恒『租税法』〔第5版〕(2011年、有斐閣)9頁、増田英敏『リーガルマインド租税法』〔第4版〕(2013年、成文堂)76頁を参照。
もっとも、租税法規不遡及の原則はそれほど厳格なものではないという指摘もある
※。たしかに、憲法に明文で定められている罪刑法定主義に比較すれば、厳格性は薄れるかもしれない。しかし、人身の自由と財産権との間に存在する性質の相違を考慮に入れるとしても、厳格性を緩めることには慎重である必要がある。むしろ、租税法規不遡及の原則が存在する根本的な理由は、租税法規、とくに租税実体法規が課税要件の形で国民の財産権に対する制約ないし侵害を規定するものであることに求められるべきである※※。※三木義一「租税法における不遡及原則と期間税の法理」石島弘=木村弘之亮=玉國文敏=山下清兵衛編『納税者保護と法の支配(山田二郎先生喜寿記念)』(2007年、信山社)274頁。
※※拙稿・前掲速報判例解説288頁。
第二説は、民主主義を理由として租税法規の遡及適用の範囲を広く認める※。この見解によると、仮に租税法規不遡及の原則が憲法上の原則たりうるとしても、民主主義の観点からこの原則は大きな制約を受け、例外の多い原則となる。従って、原則たりえないという結論に至ることもありうる。また、憲法上の原則でないとすると第三説に近い内容となる。いずれにせよ、次のような批判が可能であろう。民主主義を理由として租税法規の遡及適用を広く認めるならば、租税法律主義のもう一つの根幹でもある自由主義を損なうことになりかねない。少なくとも、民主主義と自由主義との均衡を崩すことになりかねない。これは、憲法第29条、および第25条の自由権的側面に抵触する。
※碓井光明「租税法律の改正と経過措置・遡及禁止」ジュリスト946号(1989年)122頁〔同『要説地方税のしくみと法』(2002年、学陽書房)21頁も参照〕。また、宮原均「税法における遡及立法と憲法」法学新報104巻2・3号(1997年)95頁、高橋祐介「租税法律不遡及の原則についての一考察」総合税制研究11号(2003年)76頁も参照。
第三説は、租税法規の不遡及が租税法律主義の内容ではないとする※。従って、租税法規不遡及の原則は成立しない。この考え方は、憲法第30条の存在意義を失わせかねず、妥当とは到底言えない。
※図子善信「税務行政における遡及適用の課題」税63巻6号(2008年)5頁、15頁。
租税法規不遡及の原則の内容や適用の有無が争われた判決は少なくないが、租税特別措置法附則第27条が同法第31条※の遡及適用を定めていることについて争われた福岡地判平成20年1月29日判時2003号43頁および東京地判平成20年2月14日訟月56巻2号197頁※※をきっかけにして、再び活発な議論がなされている※※※。
※ 「長期譲渡所得の金額の計算上生じた損失の金額があるときは、同法その他所得税に関する法令の規定の適用については、当該損失の金額は生じなかつたものとみなす」として、譲渡所得と他の所得との損益通算(所得税法第69条)を認めないとする趣旨である。
※※控訴審判決として東京高判平成21年3月11日訟月56巻2号176頁がある。また、上告審判決として最判平成23年9月30日集民237号519頁がある。
※※※この他、千葉地判平成20年5月16日税務訴訟資料258号順号10958、その控訴審判決である東京高判平成20年12月4日税務訴訟資料258号順号11099、その上告審である最判平成23年9月22日民集65巻6号2756頁がある。
詳細については省略するが、前掲東京地判は実質的に租税法規不遡及の原則を無にしかねないほどに例外の範囲を広く認めるものと考えられ、妥当ではないと解すべきであろう。学説においても前掲福岡地判を支持する見解が多い。なお、福岡高判平成20年10月21日判時2035号20頁は前掲福岡地判を破棄した(この福岡高等裁判所判決は確定している)。
さしあたり、拙稿・前掲速報判例解説288頁、田中孝男「譲渡所得の損益通算制度の廃止(平成16年税法改正)を憲法違反とした事例」同書53頁、および両文献に掲記された文献を参照。
A「課税要件明確主義」
法律(その下における政令・省令の場合も含む)における課税要件および賦課・徴収の手続に関する規定は、なるべく一義的かつ明確でなければならない。このため、租税行政庁に自由裁量を認めることは原則として許されず、不確定概念の使用も慎重でなければならない。しかし、実際のところ、不確定概念の使用はやむをえない場合もあり、必要な場合すらある。しかし、不確定概念の多用を指摘する声もある。不確定概念と裁量は、一応区別しうるが、実際にはどちらに該当するかが判別困難である場合も存在する。
秋田地判昭和54年4月27日行裁例集30巻4号891頁は、秋田市国民健康保険税条例において課税要件を定めていた規定が一義的明確性を欠くので憲法第84条に違反すると判断した。一方、東京地判平成2年3月26日判時1344号115頁は、消費税法における「事業」・「事業者」・「対価」について「社会通念に従って解釈すればその通常の意味内容が容易に確定できる」と述べている。
B「合法性の原則」
租税法は強行法規である。課税要件が充たされているならば、租税行政庁は、当然、法律で定められるよりも多くの税額を徴収してはならない。また、租税行政庁には、租税を減免する自由、さらに徴収しない自由はない。租税を減免する自由や徴収しない自由が租税行政庁に認められるとすると、不正が生じるおそれがあるし、納税者間の平等を損なうおそれがあるからである。租税行政庁は、法律で定められた通りに税額を徴収しなければならない。
納税者との間で和解や契約をなすことはできない。但し、実際には類似する現象もあるが、課税要件事実の認定に留まるならば違法ではない。
しかし、この原則に対しては制約があると言われる。
第一に、納税者に有利な行政先例法が存在する場合には、租税行政庁はこれに拘束される。
但し、最判昭和33年3月28日民集12巻4号624頁などは、この制約を認めない。
第二に、納税者に有利な解釈・適用が一般になされ、是正措置もとられていない場合には、合理的な理由がないのに特定の納税者を不利益に扱ってはならない(判例も同旨である)。
第三に、信義誠実の原則(禁反言の原則)が認められるべきである。
但し、判例は消極的な態度を示している。
C「手続的保障原則」
租税の賦課・徴収が公権力の行使であることは当然であるが、これが適正な手続で行われなければならず、これに対する争訟は公正な手続によって解決されなければならない。この原則は憲法第31条からも導かれうる。この原則に基づくものとして、青色申告に対する更正処分・青色申告承認取消処分の理由付記、執行機関と審査機関との分離などがある(審査機関として国税不服審判所がある)。日本における租税行政手続は、国税通則法や国税犯則取締法などの法律に基づいているが、行政手続法は適用を除外されており、納税者の権利保護との関係で課題を残している。また、先進諸国において納税者権利憲章が制定されている例が多いが、日本には存在せず、税務当局も非常に消極的である。
(2014年3月3日掲載)
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