技術的困難性が露呈した「ふるさと納税」

 

  昨今、地域間格差の拡大や「地方」の疲弊が叫ばれている。過疎化の一層の進行、中心街の空洞化、地域医療の崩壊など、極度の疲弊状態に陥っている地域があまりに多い。

   こうした状況の中、今年5月、当時の菅義偉総務大臣が「ふるさと納税」制度の創設を提唱した。これを受けて総務省に「ふるさと納税研究会」が設置され、6月から議論が積み重ねられた。そして10月、同研究会が「ふるさと納税」報告書を提出、公表した。その内容は興味深いものであるが、問題点も少なくない。

   当初、納税者が住民税の一部を、自らの意思により全く別の地方公共団体に「納める」という方式(分納方式)も想定されていた。これについては、ライフサイクル論などまで持ち出した賛成論もある一方、負担分任の原則(地方自治法第10条第2項)や住民税の受益者負担的性格または会費的性格との抵触、分納方式の技術的困難性などを指摘された。

   しかし、いずれの見解も筋違い、見当違いの議論と評価せざるを得ない。そもそも、納税者が課税団体とは別の地方公共団体に住民税を支払うというが、これは「納税」を意味しない。たとえば、A市の住民甲が、A市に納めるべき住民税の一部をB村に振り分けることは、甲が住民税の一部に相当する金額をB村に寄付することを意味する。すなわち、甲とB村との間には課税(納税)関係が成立しえない。同研究会の報告書には、受益と負担、課税権、租税の強制性などを理由として分納方式を断念したと読解し得る記述があるが、分納方式の実現不可能性は、これらの理由を掲げる段階以前の話であろう。

   ともあれ、研究会における議論は、地方公共団体への寄附金控除を税額控除とすることに落ち着いた。すでに地方税法第314条の2第1項第5の4号で地方公共団体への寄付金について所得控除が認められており、これが税額控除方式に改められることとなる。そして、下限額を10万円超から5千円超に引き下げ、住民税額の一割を上限とする方針が固められた。竜頭蛇尾の感も否めないが、妥当な方向性を示すものではあろう。

   「ふるさと納税」は、部分的に税収格差ないし財政力格差の是正という役割を期待されている。そこで問題となるのが「ふるさと」の意味である。同研究会はあえて定義せず、納税者の意思に委ねるとしている。それならば「ふるさと」というあいまいな言葉は必要ない。納税者が支援(応援、貢献など)したいという地方公共団体が「ふるさと」でなくともよいということになるからである。

   また、所得税の寄附金控除との関係について調整が済まされていない。さらに、給与所得者の利用可能性も重要であるが、これも今後の検討課題とされている。

   ほかにも、住民自治という観点の欠如など、検討すべき点はあるが、別の機会に譲らざるを得ない。ただ、効果などが未知数であるため、過度な期待は慎まなければならないということだけは述べておきたい。

 

あとがき)

  これは、納税通信2995号(2007年10月22日号)4面の「一筆啓上」のコーナーに掲載されたものです。 記事には私の顔写真も掲載されていますが、ホームページに転載するにあたって省略しました。この場をお借りして、エヌピー通信社の勝部麻梨恵氏、そして大東文化大学法学部の古川陽二教授に、改めて御礼を申し上げます。

  なお、 余談ですが、題名にはかなり悩みました。当初は「竜頭蛇尾の『ふるさと納税』?」という仮題も付けていたのですが、私自身が原稿の段階において付けていたのは「『ふるさと納税』雑考」でした。ただ、雑考という言葉にはあまり良い意味がこめられていません。ちょうど、西南学院大学での集中講義のために福岡市に滞在していた時にお話をいただき、その翌日におよそ4年ぶりに飯塚、田川後藤寺経由で大分県日田市を訪れ、集中講義の初日に購入した日本経済新聞の朝刊1面に掲載された記事を読み、中休みの日に大牟田市を訪れたことで、「ふるさと納税」を取り上げようと思ったのでした。その意味において、短いながらも九州の各地方公共団体に向けて書いたものと言えます。宮崎県知事は当初の「ふるさと納税」制度案に賛成の立場を示されていたはずですが、四半世紀を経て大分県と同じようなことをやっているように思える宮崎県の方々には、ぜひとも、「ふるさと納税」に安易な期待を寄せることがないように 願っております。そして、地方行政のトップに立つ方々には、法律学の基礎的な部分とも言えるものへの見識を高めていただきたいと願っております。

 

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