第一章 本稿の目的
わが国最初の本格的なオンブズマン制度が川崎市に導入されたのは、1990年のことである。同年7月6日、「川崎市市民オンブズマン条例」が、川崎市議会において全会一致で可決され、11日に条例第22号として公布、11月1日に施行された。わが国の中央レヴェルにおいて行政改革が叫ばれるも遅々として進まない中で、一地方公共団体にすぎない川崎市が、「市民主権」の理念を掲げてこの制度を採用したことは、日本国憲法の国民主権原理との関連という側面からも、大きな意味を有すると言うべきであろう。
川崎市市民オンブズマン条例が制定されてはや二年、川崎市の市民オンブズマン制度について、導入当初に比べると、少なくとも一般的関心は低くなっているように見える。行政法学においても、オンブズマン制度についての研究は多数存在するが、そのほとんどは川崎市がこの制度を導入する以前に公表されたものであり、川崎市市民オンブズマン制度について詳細に検討したものはほとんどないというのが現状である(1)。
しかし、川崎市市民オンブズマン制度は、全国の地方公共団体に大きな影響を及ぼしつつある。1990年10月1日、東京都中野区は、区長の附属機関として「福祉サービス苦情調整委員」制度を発足させた。これは「特殊オンブズマン」(2)制度の一類型である。長崎県諌早市も、川崎市市民オンブズマン条例に類似する「市民参与委員」制度を導入する旨を内容とする「諫早市付属機関の設置に関する条例」を1991年10月8日に制定し、翌年2月に運用を開始した(3)。その他、新潟市など、オンブズマン制度導入を本格的に検討している地方公共団体もある(4)。
そして、地味であるとはいえ、川崎市民の間に、市民オンブズマン制度が定着しつつある。当面の課題としては、行政一般を対象とするオンブズマン制度としてはわが国初の試みである川崎市の具体的成果と問題点を、分析・検討することが肝要である。
また、本来ならばわが国では、もともとオンブズマン制度は中央レヴェルで長い間検討されてきたものであり、中央レヴェルでのオンブズマン制度導入が先行すべきであったのだが、実際には一地方公共団体により、リクルート疑惑を直接の端緒として市長選挙の際の公約を実現するという政治的色彩をも帯びて、オンブズマン制度が導入されたのである。制度化の際、地方自治法や地方公務員法など現行の法律の制約が存在するが、そのなかで運用されることとなった。このことが、将来のオンブズマン制度の命運に、多少とも関係があるのではなかろうか。
さらに、より重要な問題であるが、オンブズマン制度は簡易迅速な苦情処理および行政監察をその趣旨とする制度であり、正規の行政手続および救済手続とは言い難い。川崎市市民オンブズマン条例も、この前提に立っている。市民オンブズマンは行政に対し、何らかの勧告または意見表明をするに止まり、具体的な行政行為(処分)を彼の職権で取り消したり、行政の不作為を理由に直接行政行為をなすことを認められていない。市民オンブズマンが市民の苦情申立てを受けて、担当部局に代わって是正措置をなすことも許されていない。市民オンブズマンの人選についても困難な問題が生ずるであろうし、この制度の実効性が何よりも第一に市民オンブズマン自身の権威に係っていることも忘れてはならない。一般的に、オンブズマン制度に対する「過度な期待は幻想に終わる可能性を秘めているといわなければならない」(5)とされるゆえんである。
いずれにせよ、新しい制度が導入される場合、様々な試行錯誤を伴うことは当然であって、日本におけるオンブズマン制度が、行政国家現象進行に対する歯止めとして、敢えて言うならば行政に対する矯正策として、また我々一般国民(住民)のための権利利益救済制度として発達ないし定着してゆくのか、その解答の第一段階は、川崎市における制度の運用が鍵を握っている(6)、と考えられる。
本稿は、川崎市市民オンブズマン制度を、とりわけ条例とその運用を、行政法を専攻する者としての、そして、川崎市民としての立場(7) から、理念と現実に即して、検討を試みることを目的とするものである。
(1) なお、いわゆる基本書(または教科書)のうち、川崎市市民オンブズマン条例について比較的詳しく論述するものは、村上武則編『基本行政法』230頁(佐藤英世執筆)であるが、条例の文言に基づく説明に終始しており、問題点の指摘はごく簡単になされているにすぎない。また、オンブズマン制度についての基本書ともいうべき園部逸夫『オンブズマン法』〔増補補正版〕182頁(園部逸夫=朝倉久美子=枝根茂執筆)の論述も、川崎市市民オンブズマン(事務局)発行『川崎市市民オンブズマン第1年次報告書(平成2年11月1日〜平成3年10月31日)』(以下、便宜上『報告書』と略記)の要約の感が強い。これは川崎市市民オンブズマン制度が発足してまだ約二年しか経っておらず、川崎市市民オンブズマン条例についての詳細な検討は時期尚早ということなのであろうか。
〈補注〉 既にお断りをしているように、この論文の内容は1992年9月当時のままであり、全く変更を加えていない。その後の状況をみると、オンブズマン制度の研究は、あまり進められていないようである。一般的な関心も薄くなっているのではなかろうか。しかし、川崎市市民オンブズマン制度の運用開始から9年が経とうとしており、情報公開法の施行を間近に控えたこの時期に、オンブズマン制度の再検討をなすことが必要であると思われる。
(2) 「特殊オンブズマン」については第二章(4)で述べる。
(3) 園部・前掲書185頁。
(4) 前川清治『解説と資料 川崎市の市民オンブズマン制度 付・資料 東京都中野区の「福祉オンブズマン制度」』48頁は、神奈川新聞の記事を引用してこの事実を紹介するのであるが、具体的に何年何月何日付の記事なのかを全く明示していない。新潟市、山梨県などがオンブズマン制度の導入を検討していることは、鈴木秀美「川崎市市民オンブズマン条例」ジュリスト増刊(1992年4月)・新条例百選17頁でも触れられている。
(5) 原田尚彦『行政法要論』〔全訂第二版〕275頁。
(6) 同旨、多賀谷一照「川崎市市民オンブズマン制度」法学教室122号7頁。
(7) 私が川崎市市民オンブズマン制度に関心を抱くようになった直接のきっかけは、制度発足の年に私が行政法を学び始めたことであるが、根本的には、私が川崎市で生まれ育ち、現在も同市で生活し、絶えず何らかの形で市の行政と関わりを持たざるをえないことにある。もとより、以上は私の川崎市民としての関心であり、行政法を研究する者としての関心は別のところにある。