リーダーたちの群像〜平松守彦・前大分県知事

 

 

    長かった一時代

  六期二四年、四半世紀。―平成一四年八月五日、時の大分県知事、平松守彦氏が引退を表明してから、大分県内の報道機関が平松県政を回顧する時に、何度となく掲げた言葉である。

  これだけ長い期間にわたり、都道府県知事の地位にあり続けた者は、それほど多くない。戦後に限定すると、奥田良三氏(奈良県、八期)、中西陽一氏(石川県、八期)、蜷川虎三氏(京都府、七期)などの例はある。しかし、平成六年に中西氏が知事の座を退いてからは、平松氏の他、松形祐堯氏(宮崎県)、中沖豊氏(富山県)が、いずれも六期で最長となっていた。そして今年、四月に平松氏が引退し、八月には、現役で最高齢であった松形氏も知事の座を去った。

  近年、長の多選に対する批判が強くなり、多選自粛条例を制定する自治体も登場している。勿論、多選が直ちに地方政治に弊害をもたらす訳ではないという意見もある。平松氏は、一貫してその立場を取り続ける。しかし、現実の問題として、長の在任期間が長ければ長いほど、停滞感が漂い、腐敗などが起こりやすくなるのも事実である。少なからぬ国民が、このことを実感しているし、国際政治や歴史などの観点からしても、いわば経験知に属するであろう。

  平松氏は、在任期間中、一村一品運動、テクノポリス構想、大分自動車道および東九州自動車道の建設推進、豊の国ハイパーネットワーク構想、ワールドカップの誘致など、様々な課題に取り組んだ。これらによって、大分県に一定の前進をもたらしたことは否定できない。しかし、任期が重なるにつれて大分県の財政状況は悪化し、いまや、県債の発行残高は一兆円に届く勢いである。既に、このままでは平成一九年度に財政再建団体に転落するという見通しを、大分県自らが出している。しかも、県内では中核市たる県都大分市への一極集中が進行し、その大分市を初めとした各地域において中心街の空洞化が深刻な問題となっている。

  限られた紙数の中で平松県政二四年を振り返ることは困難であるが、ここでは、いくつかの点に絞って回顧を試みたい。

    一村一品運動と過疎化など

  平松知事時代の大分県と言えば、まずは一村一品運動である。平松氏は、第一期目からこの運動に取り組んできた。この運動は地域おこしの元祖と言うべき政策であり、九州の他県、さらには東アジア地域などにも影響を与えた。

  もっとも、平松氏自身も認めるように、この運動は県のオリジナルではない。原型は、既に日田郡大山町や大分郡湯布院町に存在していた。この二町で進められていた農業振興策が一定の成果を収めていたため、いわば県に拡大する形で始められたものである。

  一村一品運動は、市町村(一村)ごとに特産品(一品)が決められ(農畜産物や海産物が主なものだが、温泉などでもよく、一つに限られなくともよい)、これによってブランド商品を作り、地域振興を図るというものである。おそらく、過疎化進行の歯止めにしようという目的もこめられていたはずである。そして、基本的には各市町村住民の創意や工夫などに委ね、大分県は支援役を務めるというものであった。

  しかし、実際には、地域発想型というより、行政主導型で進められた。現知事の広瀬勝貞氏も、一村一品運動に高い評価を与えつつ、これまでは行政主導型であり、民間主導型に変えるべきであると明確に述べた(今年の六月議会における一般質問に対する答弁)。そして、大分県内の各地域の特産であるはずの一品が、大分県自体の特産品として扱われる傾向にあり、まさに大分県の宣伝手段と化していた感がある。一品が国の補助金獲得の手段に使われていたという事実もある(平松氏自身が明らかにした)。

  そればかりか、一般の県民の間では、一村一品運動への関心は相当に薄くなっていた。

  実際、一村一品運動を地域おこしの一つとして捉えるならば、成功したとは言い難い。ここ数年、大分県の過疎地域市町村指定率は全国一である。例えば、平成一一年度の過疎地域市町村指定率は約七七.六%であった。五八市町村中、四五市町村が指定を受けていたのである。翌年度に杵築市が指定から外れたが、高率であることに変わりはない。そして、今年の四月二一日時点において過疎市町村に指定されているのは四四市町村、指定率は約七五.九%で、第一位の座を保っている。この数字だけで全てを判断しうる訳でないが、多くの市町村において過疎化そして高齢化が進行し、一品の生産などに影響が出ていると容易に判断できる。

  逆に、人口、および経済基盤の多くが大分市に集中している。同市の人口は四四万人を超えているので、大分県の全人口の三分の一強が大分市に集中しているのである。そればかりでなく、最近建設された県施設(オアシスタワーや、W杯の会場にもなった大分スポーツ公園など)が大分市に集中している。これに対しては、他の市町村から強い不満の声も聞かれた。

  また、地域の産業振興という点においても、一村一品運動には疑問が残る。全国的な産品として定着した一品は麦焼酎など、少数にすぎない。しかも、それらは運動の初期に集中しているようである。総販売額は増加しているが、椎茸など、生産高あるいは販売額が減少している品目が多く、消滅した産品もある。九州各県と比較しても、大分県の農業粗生産額、一戸あたりの農家所得および農業所得は低く、平成一三年度における一戸あたりの農家所得および農業所得は、九州七県で最低の数字であり、農業粗生産額も下から三番目である〔九州農政局大分統計情報事務所『大分県農業の動向』(平成一五年三月)六四頁による〕。

    平松氏の地方分権論

  かつて、平松氏は「地方分権の旗手」として知られ、その地方分権論を、多数の著書などにおいて公表していた。また、全国初の広域連合である大野連合など、広域行政、さらに市町村合併を積極的に推進する姿勢を示した。

  しかし、宮城県や三重県、長野県、北海道ニセコ町など、いくつかの自治体で改革派の長が登場するようになり、旗手としての平松氏の影は薄くなった。平松氏自身は、こうした改革派の姿勢と一定の距離を置いてきた。それは、後に述べる政治スタイルと関係がある。

  彼の地方分権論は、道州制論の一類型を示すものである。簡単に言えば、現在の都道府県制度は国から権限や財源の委譲を受けるには十分な規模でないので、例えば「九州府」を置き、ここに権限を移す、というものである。平松氏にとっては、市町村合併は道州制を実現するための一段階にすぎない。そして、永田秀樹教授が指摘するように、この構想には地方自治の根幹であるはずの住民自治の要素が稀薄であり、皆無に近いとも言いうる〔永田秀樹「『日本合州国』の虚像と実像―平松知事の分権論に対する疑問―」大分大学経済論集第五〇巻第五号(一九九九年)一三〇頁を参照〕。

  地方自治には、地域住民の発意を尊重するという理念があるはずである。勿論、住民の主体性があっての話である。そうなれば、規模の大小はともあれ、地方分権を実のあるものにするには、単に国と地方との権限および財源の配分という問題に留まらず、住民自治、そしてそれに資する手段〔例えば、情報公開、住民参加の公正かつ透明な行政手続、説明責任〕が必要である。平松県政は、情報公開について大きく遅れをとった。また、住民参加の公正かつ透明な行政手続、および説明責任についても不十分であった(あまり関心が示されなかったと記すと行き過ぎであろうか)。今、地方自治、そして地方分権に求められるものはこれらであり、平松氏の地方分権論がそれらを軽視あるいは無視するものであるとするならば、論として不十分に過ぎるものと言わざるをえない。

    政治スタイル

  二四年間の平松県政を振り返ると、いくつかの特徴がある。ここで若干の点をあげる。

  一つめは、構想力である。一村一品運動といい、テクノポリス構想といい、ローカル外交といい、その豊かさには感心せざるをえない。また、それらを実行する能力に富んでいることも評価しうる。ただ、問題は、実行の際に検討を要するはずの様々な要素(財政など)にどこまで配慮を示してきたか、ということであろう。

  二つめは、大型イベントの多用、そしてそれへの動員である。行事への動員自体は珍しいものでもないし、必要でもある。しかし、平松県政においては、様々な場面において大掛かりなイベントが催され、県職員を初め、関係団体など多くの県民が動員された。一つだけ例を示すならば、平成一三年五月二四日、ワールドカップの会場となった大分総合競技場、通称ビッグ・アイの完工式の直後(同日)に行われた高校総合体育大会の開会式には、大分市内の全高校生、大分市以外の高校に通う二年生および三年生の全生徒、そして教職員の約三万七千人が参加した。同様の例は枚挙に暇がない。

  三つめは、大分合同新聞に最近掲載された回顧記事(後記を参照)の表現を借りるならば「民意に従うことが常に正しいかどうか」、「民意と先見性の溝をいかに埋めていくのか」という姿勢である。これが、彼の政治スタイルの根本ではないか、と思われる。

  勿論、私も、常に民意が正しいと考えていない。民意も誤ることがある。しかし、民主主義は、そもそも、権力が民意の御機嫌伺いをするような「パンとサーカス」の世界のものではない。権力を国民や住民が監視し、暴走を防ぐことにある。そして、先見性と民意とは別次元のものであり、両者を単純に対立させることはできない。この点からすれば、先見性だけで良い行政は生まれない。まして、いかに社会資本の整備や産業の育成が必要であるとは言え、その必要性は、行政が単独で決めればよいというものではない。表現に問題があるかもしれないが、先見性と民意を対立させる思考方法は、反民主主義的なもの、あるいは、民主主義の誤解に基づくものであると言いえないであろうか。

    「平松」後の大分県政に求められること

  広瀬知事は、就任以来、平松知事時代と一線を画す姿勢を示している。例えば、就任直後には、豊予海峡大橋構想の断念が表明された。結局、今年度の県予算において豊予海峡大橋の調査費は盛り込まれたが、大幅に減額されている。また、行財政改革、とくに行政評価システムや外部評価制度の導入などが打ち出された。

  以前、私は「すべてを行政が決定し、住民に対して一方的に理解を求め、場合によっては動員するという政策手法は、既に限界に達している、あるいは、通用しなくなっていると言いうるのではないであろうか。こうした方法は独善に陥りやすく、後世にツケを残しやすい。このことからして、今後、大分県には、科学的・合理的な政策決定および遂行、情報公開、さらに住民参加の一層の推進を求めたい」と記した〔拙稿「大分県に望まれること」大分ジャーナル創刊号(平成一四年五月)四五頁〕。今、大分県に求められていることは、長かった平松県政の足跡を短期集中的に、しかし丹念に検討し、冷徹な評価を下すことである。過去の業績ばかり強調し、反省を忘れることがあってはならない。

  (後記)

  平松氏自身の名義による著作などは多数にのぼるため、ここでは紹介を避けておく。なお、平松氏自身による県政の回顧が「回想・県政四半世紀」として、五月一日より七月一五日まで、断続的ながら大分合同新聞に連載された(計四〇回)。本稿においても、この連載記事から一部を引用し、また、参照しているが、煩雑になるため、引用に際しては明示を省略した。

 

  (ホームページへの掲載にあたって)

  この論文は、月刊地方自治職員研修2003年10月号31頁から33頁までに、特集「 リーダーの研究〜自治体首長論」の一つとして掲載されたものであり、2003年8月の時点において執筆したものです。なお、雑誌掲載時は縦書きでした。この場を借りて、月刊地方自治職員研修編集部の友岡一郎氏に、改めて御礼申し上げます。

  なお、文中に登場する大分県に望まれること」は、このホームページにも掲載しております。既に大分ジャーナルは廃刊になったようで、大分市内の各書店においても見かけなくなりました。私が助教授になってすぐに書いた論文(というよりは随筆に近い)が掲載された創刊号の中身は充実していました。それだけに残念です。

 

戻る