第三章 川崎市市民オンブズマン条例制定までの過程
わが国の中央レヴェルにおいてオンブズマン制度導入が検討されつつも、現在に至るまで何ら具体化に向けての動きは見られない。それでは、何故川崎市がオンブズマン制度導入に踏み切ることになったであろうか。
京浜工業地帯の中心にあり、戦後の日本の復興と高度経済成長の象徴的存在でもあった川崎市は、1971年4月、それまで25年間にわたり市長であった金刺不二太郎氏に代わって伊藤三郎氏が市長の座に着き、革新市政の道を歩むことになった(38)。
その後、1984年10月に川崎市情報公開条例、86年1月には川崎市個人情報保護条例が施行されるなど、川崎市政は安定しているかに見えた。ところが、1988年6月18日、川崎市政を激しく揺るがす事件が生じた。いわゆるリクルート疑惑である。
この事件について詳細を述べることは本稿の目的を逸脱するので避けるが、革新市政五期目、翌年に次期市長選挙を控えていただけに、当時の助役であった小松秀熈氏の汚職は川崎市民に市政への疑念を抱かせ、当時病気がちであった伊藤氏の退陣につながる結果となった。
リクルート疑惑によって改めて得られた教訓の一つは、前章・で私が述べた、政権の長期化がもたらす弊害である。革新市政を長きにわたって支持・礼賛した者からは、リクルート疑惑が当時の政府による「行革・民活路線」の影響によるものであると主張される(39) 。たしかにその通りであるが(40) 、伊藤氏の政権長期化という重大な要因があることを見逃してはならない。事実、川崎市議会百条委員会の調査活動総括である「最終報告」(41)は、市長ならびに小松氏を除く二名の助役の管理責任を指摘しているし、行政監視・職員倫理の確立についての市民の関心が高まっていた。そして、小松氏が関係していた日本計画行政学会による「川崎・キャンパス都市構想」(42) の実態が、市民の間に不審を抱かせ、革新市政の腐敗を象徴することとなった。
革新市政の自浄能力を試す機会は、1989年11月の市長選挙であった。伊藤氏の引退によって行なわれたこの選挙は、リクルート疑惑解明の当局責任助役で厳しい内部批判者と言われた革新系候補高橋清氏が、保守系候補者永井英慈氏を破り、市長に当選した。高橋氏は選挙活動中から、市民の市政への信頼回復と住民自治の街づくりを公約していたが、その具体的政策の一つとしてあげられたのが、オンブズマン制度導入であった。
このように、オンブズマン制度導入には、革新市政の継承という政治的色彩もあることは否定できない。オンブズマン制度は、革新市政の自浄能力を発揮するための一手段でもある、と見ることも可能である。
しかし、オンブズマン制度導入への動きは既にリクルート疑惑発覚以前に存在した。
1986年10月15日、川崎市議会は、川崎市多摩区の一住民からの「市民的立場で市政に対する不平、苦情、提言等の処理や監視と救済を行なうオンブズマン制度導入」を求める陳情を受理した(43)。この陳情は川崎市議会第一委員会に付託され、1987年1月、同年7月の審議を経て、同年11月に陳情の趣旨が採択されている。
前述の市長選挙で高橋氏が当選したことにより、川崎市のオンブズマン制度導入に至る過程は直線化する。1989年12月、「川崎市市民オンブズマン制度研究委員会」(44)および「小委員会」(45)が設置され、翌年5月7日までの間の双方合わせて15回の会議において、導入されるべきオンブズマン制度の骨子、さらに「提言」を検討し、市長に「提言」を提出した。また、1990年2月2日には、スウェーデンの政治学者アグネ・グスタフソン氏を招き、「市民オンブズマン制度の実現に向けて」(46)と題する市民フォーラムを市が開催した。これには市職員も参加し、参加市民の意見は右の「研究委員会」の審議に生かされたという(47)。
「提言」は、オンブズマン制度導入の目的として、「『開かれた市政』の一層の進展と行政に対する市民の信頼を確保すること」をあげ、制度導入の必要性としては、「川崎市が基礎的地方公共団体として21世紀の情報化・高齢化・国際化社会に適切に対応」するために「市民の苦情を市民の立場に立って簡易・迅速に処理」すること(48)、「大規模化・複雑化・専門化した市の機構とそれが実施する行政活動を中立的立場から」調査・監視すること(49)、行政不服審査や行政事件訴訟、苦情処理など既存の制度・手続では適切に処理することに困難な苦情が存在することをあげている。簡単に言えば、「提言」は、オンブズマン制度を、苦情処理・行政監視の手続の一環として、そして既存の制度を補助ないし活性化する一手段として捉えているのである。
「提言」の内容をもとに作成された条例案は、平成2年第3回川崎市議会定例会に提出され、論議される(50)。
しかし、市議会において、現市長の選挙公約と条例の目的(これは「提言」および川崎市市民オンブズマン条例第1条にあげられている)とが相違している旨の、田中和徳議員の指摘があり、同氏は「国の段階で法の裏づけが全くなされていないままの導入であり、時期尚早との意見もうなづける」(51)と述べる。
市長の選挙公約において、オンブズマン制度は、市長の信頼回復、および職員の綱紀粛正を図るための手段と位置づけられていた。ところが、条例の目的は、市民の苦情処理と行政監視(52)におかれ、職員の綱紀粛正(これは汚職防止を主に指す)という点は欠落している。田中氏は、オンブズマン制度の本来の意義である行政監視のほうに力点を置いているようである(53)。
全体的に見て、市議会での討論において市議会議員側の勉強不足の点があるのは否めない。しかし、導入に否定的な議員は存在せず、慎重派と積極派に分かれた感が強い。
田中氏は、いくつかの点について非常に重要な質問をしている。第一に、固定資産税過剰課税の例を引きつつ、苦情申立ての期間が一年では短すぎるのではないかということ、第二に、市の職員側の理解・協力の問題、第三に、市民オンブズマン事務局職員の職務内容および人事移動の問題である(54) (55)。また、市民オンブズマンの人選に関して推薦委員会の設置(56)を提唱している。
また、市民オンブズマンの任期(再任を含む)の問題、任命権者と任命の方式、独立性と中立性の維持、市民オンブズマンの地方自治法上の位置づけについて、数多くの質問がなされている。これらの問題は、結局は地方自治法による条例制定への制約の問題であり、条例案で修正を施した旨が明言されている(58)。このうち、市民オンブズマンの位置づけについては、地方自治法第138条の4第4項に規定された、執行機関の附属機関(川崎市市民オンブズマン条例の場合は市長の附属機関)としての性格を有することとなったのである。
右を含めて、川崎市市民オンブズマン条例における重要な問題点については次章で考察する。ともあれ、本会議での代表質問の後、条例案は市議会第一委員会に付託され、7月6日に本会議で全会一致で可決された。
10月6日、平成2年第4回川崎市議会定例会において、市民オンブズマン人事が市長から提案され、市議会は全会一致で同意した。
選任された三人の市民オンブズマンは杉山克彦氏(弁護士・元東京高等裁判所長官)、菅野芳彦氏(中央大学教授・教育学博士)、大西千枝子氏(弁護士・横浜家庭裁判所川崎支部調停委員)であり、川崎市市民オンブズマン条例施行規則第3条第1項により(58)、市民オンブズマンの互選の結果、杉山氏が代表市民オンブズマンとなった。
この人選について評価を下すならば、まず女性の起用が注目に値する。平成2年第3回川崎市議会定例会での、各党の代表質問においても、女性の起用が提案されており、期待に答えた形となった。次に注目すべき点としては、杉山氏と大西氏がともに法律家である。また菅野氏は、元川崎市教育委員会委員長でもあり、川崎市市民オンブズマン条例第7条第2項にいう「地方行政に関し優れた識見を有する者」にあたると言いうる。
ただ、菅野氏に関して、10月6日の市議会において水科宗一郎議員は、行政委員会の業務などに「長年携わってきた方がその任に当たることは、オンブズマンの性格上公正、中立いう立場からも十分配慮する必要があると考えます」と質問した(59)。これに対し、高橋市長は、「専門的に市の職員として長い勤務をされたあるいは三役として勤務をしたという者が、OBという形で推薦等を受けたりする」のは好ましくないが、「1ヶ月に1度あるいは2度程度いろいろな知識をお持ちになっておって、その行政の事務局長に対して発言をしてくると、こういうような形の方々まで行政に携わったという分野で範疇から除くかどうか、これは意見の分かれるところでございまして私たちも大分内部で議論をいたしました」が、結果として菅野氏を選任したと述べ(60)、さらに、「行政マン」とは「市の一般職として経験を持っている者」と規定していたが、行政委員会の委員はこれに含まれない旨を述べている(61)。
行政委員会は、合議制機関であること、一般の行政機関の組織系統から独立した地位を有すること、行政上の権限に加え準立法的権限と準司法的権限を同時に備えること、これらが主要な特色とされる(62)。教育委員会もまさに行政委員会の一種であって、委員は非常勤であり(地方教育行政の組織及び運営に関する法律第11条第4項)、任命要件も一般職の公務員とは異なる資格要件が定められており(同第4条)、一定の職業との兼職も禁止される(同第6条)など、公正・中立の観点から様々な配慮がなされている。この点から、菅野氏の選任については条例上問題はなく、むしろ教育委員会委員長としての経験が市民オンブズマンの職務に生かされることもあろうかと考えられる。
いま一つは、市民オンブズマンの三氏とも川崎市在住者である。市民オンブズマンが川崎市に在住する者でなければならないという要件は、条例や施行規則などに一切規定されていない(63)が、市民オンブズマンが「市民主権の理念に基づ」く、いわば市民の代理人的存在であることを考えるならば、市民オンブズマンが川崎市民であることは望ましいと思われる。
また、「市民オンブズマンの職務に関する専門調査員」六人(川崎市市民オンブズマン条例第21条第2項、川崎市市民オンブズマン条例に基づく専門調査員の職務、勤務日、勤務時間等に関する要綱第2条)が、地方自治法第174条第2項にいう「専門の学識経験を有する」専門委員として、大学院修了者または在籍者から選任され(64)、一人の市民オンブズマンに二人の専門調査員が配置された。
市民オンブズマン事務局は、独立性、そしておそらくは中立性を確保するためでもあろうが、川崎区宮本町の川崎市役所本庁舎内にではなく、同区砂子の民間ビル内に設置されている。
1990年11月1日、川崎市市民オンブズマン条例が施行された。初日の苦情申立件数は12件、最初の一ヶ月で41件であり、そのうちの3件は解決された。この3件の事例と処理内容は公表されている(65)。
1991年8月2日、月一回、川崎区を除く各区役所を巡回する「巡回市民オンブズマン」いう制度が、幸区役所を皮切りに開始された。これは、「市民と面談する機会を増やし、市民オンブズマン制度のより一層の推進と円滑な運営を図る」(66)ために、市民オンブズマン自身の判断によって設けられた(67)。
現在、川崎市市民オンブズマン制度は、市民の間に定着しつつ、順調に運用されているようである。今年(1992年)10月31日をもって第2年次が終了し、11月1日から第3年次を迎える。
(38) この経緯について、芹澤清人『ふるさとの名は川崎』41頁を参照。
(39) 芹澤・前掲書145頁。
(40) 当時の「行革・民活路線」とは、主に第四次全国総合開発計画(四全総)に基づく路線を指しており、本文中にある「川崎・キャンパス都市構想」も、右計画によって推進されようとしていたものである。四全総については、「多極分散」を名目とした東京再開発、地価暴騰の促進、濫開発の促進などの問題点が指摘されていた。法律時報62巻8号特集「今日の都市政策と土地法制」所掲の各稿、成田頼明「四全総と地方自治」『土地政策と法』62頁、坂口洋一「四全総(首都改造)・環境」渡辺洋三編『現代日本の法構造』173頁を参照。
(41) 正式名称は「川崎駅周辺再開発事業盗聴さ特別委員会報告書」であり、川崎市議会事務局編『川崎駅周辺再開発事業等調査委員会活動記録《100条委員会の設置から調査終了まで》』107頁に収録されている。
(42) この構想は、1985年7月に開催された「国際シンポジウム――高度情報化社会と計画行政」において打ち出されたものである。芹澤・前掲書152頁。
(43) 『昭和61年第5回川崎市議会定例会会議録』210頁、受理番号176。なお第一委員会の審議内容についての資料を入手しえなかったことをお断わりしておく。
(44) 委員は、磯野和久、宇都宮深志、岡沢憲芙、佐藤順子、三邊夏雄、篠原一、柴田頼子、鈴木武夫、多賀谷一照、原田尚彦、福島瑞穂、藤原房子、宮洋世紀、矢野純一、山口武の諸氏(五十音順)。委員長は篠原氏、副委員長は原田氏。
(45) 研究委員会委員のうち、宇都宮、岡沢、三邊、多賀谷、原田の各氏。委員長は原田氏。
(46) 前川・前掲書14頁。
(47) 荒井和雄「川崎市市民オンブズマン制度について」季刊自治体学研究47号12頁。尤も、参加市民の意見がどのように生かされたかについて、「提言」は触れていないし、私が入手した他の資料からも不明である。
(48) 『ハンドブック』103頁。同書同頁によれば、市政における相談件数は1986年度が9346件、1988年度は911873件である。
(49) 『ハンドブック』104頁。川崎市の人口は1990年1月現在で1159824人であり(『'90統計川崎 川崎市の人口動態――平成元年』156号30頁)、川崎市の内部組織は30局465課、総職員は約16000人とのことである。
(50) 議案第79号として取り扱われた。
(51) 『平成2年第3回川崎市議会定例会会議録』90頁。
(52) この点につき、田中氏は「当初から市長が市民に公約された職員の管理監督、綱紀粛正への効果については、答弁を伺う限りトーンダウンしたとしか言いようがないと思う……不祥事事件の防止に力点を置いたオンブズマンというのは世界でも珍しいというのか、川崎市のオンブズマンの設置の最大の目的が職員の綱紀粛正ということであれば、現実には別に市政、職員、監視機関を設置しなければ、とても効果が望めないだろう」と述べる。前掲会議録123頁。なお、第二章(6)を参照。
(53) 第二章(6)を参照。
(54) 前川・前掲書17頁は、田中氏の質問に対し、「制度の早期導入に疑問を投げかけ」、「実効性に疑問を投げかけ」ているものと理解した上で、田中氏が制度導入に否定的であるかのように論じている。また、第一委員会の審議についても、毎日新聞1990年7月3日付の記事(前川・前掲書はこの記事についても月日を明示していない)を引用しつつ、「揚げ足取りに終始」(右記事解説欄の題名)と批判する。しかし、田中氏に勉強不足の点が認められるとは言え、本文にも示したように、いくつかの重要な問題提起をしているのである。第一委員会の審議についても同様のことがあてはまる。こうした問題提起を「揚げ足取り」と解することには疑問を呈せざるをえない。また、田中氏の質問により、スイスのチューリヒ市がオンブズマンを採用している事実が明らかになったが、これについての資料は私も入手できなかった。いずれにしても、前川氏は、故意か否かは別として、若干の曲解をしていることを、ここで示しておく。田中氏の質問は長く、やや混乱した印象を与える。しかし、導入に決して否定的でなく、慎重にすぎないと見られるのである。
(55) 市民オンブズマン事務局職員は常勤の一般職公務員である。よって、任命権者の指揮監督を受けざるをえないこととなるが、とくに人事異動については市民オンブズマンの意向を尊重することとなろう。前掲会議録117頁、『ハンドブック』89頁。今後、再検討を必要とすることも考えられる。
(56) これは実現されなかった。仮に設置された場合、市民オンブズマンの独立性・中立性に影響が及ぶおそれがあったからであろう。
(57) 例えば、前掲会議録116頁。
(58) 正式に施行されたのは、1990年11月1日である(同年10月16日に制定された。川崎市市民オンブズマン条例施行規則附則)。
(59) 『平成2年第4回川崎市議会定例会会議録』339頁。
(60) 前掲会議録・401頁。
(61) 前掲会議録・403頁。
(62) 新井隆一編『行政法』212頁(岡田正則執筆)。
(63) 平成2年第3回川崎市議会定例会の代表質問において、前川氏は、市民オンブズマンの要件の一つとして川崎市内に居住することを入れるべきであるとする旨の質問をしている。高橋市長は答弁中、「必ずしも市内在住ということに限定はできないんではないかというふうに考えている」と述べている。『平成2年第3回川崎市議会定例会会議録』219頁・222頁。しかし、実際には、川崎市内在住ということが非常に重要視されている。『平成2年第4回川崎市議会定例会会議録』397頁。
(64) 朝日新聞1990年10月24日付の記事による。
(65) 1990年12月2日付の各新聞で紹介されている。また、前川・前掲書33頁でも紹介されている。なお、これらの事例は『報告書』では紹介されていない。
(66) 『報告書』8頁。第一回目は幸区役所、第二回目は1991年9月6日、麻生区役所、第三回目は1991年10月4日、中原区役所。なお、川崎市議会事務局調査課編『議会ハンドブック平成三年版』59頁は、「地域の方がたの便宜を考えて」巡回市民オンブズマン制度が設けられた旨を述べる。
(67) 私の取材による。