04 租税負担の公平―応能負担原則と応益負担原則を中心に―
日本国憲法などにおいては明示されていないが、租税は、国(または地方公共団体)と個人または 法人(基本的に公法人を除く)の間の関係において成立する法律関係の目的物として、個人または法人から徴収されるものである。ここでいう法律関係は一種の債権債務関係であるが、民事法上の契約関係ではなく、法定の債権債務関係である。従って、国民が履行すべき租税債務は、個別の租税法律または租税条例により、一定の要件を充足した場合に当然に成立する。
このようなものであるため、個人または法人は、法律または条例に定められた要件に該当する限り、法律の規定により、債務として租税を支払わなければならない。それだけに、法律や条例の規定が公平性を欠くものであってはならない。また、税務行政の執行に不公平があってはならない。
しかし、現実の租税制度は非常に複雑であり、制度全体について公平性を一貫させることは困難である。その可能性は限りなく低く、不可能性は限りなく高い、と表現してもよいであろう。
そればかりでなく、租税は様々な政策を推進するための道具としての機能をも有し、いわば誘導手段として用いられることが多い。日本の場合、このような、いわゆる政策税制の果たす役割が多く利用されてきた。これは、特定の政策を促進し、該当するものを優遇するという性格を有するため、租税制度に歪みを生じさせ、不公平性を増大させるという難点がある。これは納税者間の不公平として不満を高めさせ、租税制度全体に対する信頼を低下させるとともに、脱税や租税回避への誘因となり、結局は財政全体の悪化につながる。
1.何故に、私人は租税を負担する義務を負うのか?
租税の公平負担の問題は、実のところ、本節の表題に掲げた問題と密接に関わる。そもそも何故に租税が正当化されるのかという問題があって初めて公平性を論じる意味があるし、逆に、公平性が存在しなければ、租税負担の正当化をなすこともできない。そこで、難問ではあるが、租税の正当化の根拠について触れておきたい。古くから様々な議論が展開されているが、財政学などにおいて、大きく二つの見解が存在する※。
※この部分は、金子宏『租税法』〔第十八版〕(2013年、弘文堂)19頁による。
一つは、利益説(対価説)であり、自然法思想や社会契約説を背景とする。この考え方によれば、国家の目的は私人の身体と財産を保護することであり、租税は、私人が国家から受ける利益の対価である。従って、私人の租税負担は、私人が国家から受ける利益の程度に対応して配分されるべきであるということになる。応益負担に結びつき、比例税率に結びつきやすい。
もう一つは、義務説(犠牲説)である。この考え方は、利益説を非現実的かつ非実際的とする批判から生まれたものであり、イギリスの功利主義の伝統に基づくと言われる※。また、応能負担と結びつく形でドイツ国民経済学・国法学においても主張された。この考え方によれば、国家はその任務を履行し達成するために当然に課税権を有し、国民は当然に納税義務を負う。従って、この説によれば、私人の租税負担は、私人が国家から受ける利益の程度に対応して配分される必要はないということになる。そして、この考え方は、応能負担に結びつきやすいが、逆に権威的国家思想にも結びつく可能性も高いし、現にその傾向があった。
※重森暁・鶴田廣巳・植田和弘編『Basic現代財政学』〔第3版〕(2009年、有斐閣)264頁[諸富徹担当]。
以上の考え方が、租税の公平負担に関する議論につながっていく。租税法の教科書には、応能負担原則と応益負担原則についての解説が掲載されていないものが多いかもしれない。しかし、憲法第14条により要請される租税公平主義(租税平等主義)や租税中立主義を念頭に置けば、少なくとも租税制度の設計に際して、具体的にいかなる課税が公平・平等の要請に資するかを考察しなければならない※。
※北野弘久『税法学原論』〔第六版〕(2007年、青林書院)137頁は、次のように述べる。「もし、応能負担原則ないしは負担公平原則一般を、税法の解釈・適用の指導法原則とするときは、税法は単なる行政の『手引き』的存在となり、租税法律主義の原則は崩壊する。応能負担原則は立法論のレベルでの原則である。それは租税立法上のもっとも重要な指導法原則を構成する。そして、ときに成立した租税立法がこの原則に違反して違憲無効となることもありうる(憲法一三、一四、二五、二九条等違反)。その意味において、この原則は、憲法論のレベルにおいては法解釈上の原則をも構成するといえる。」(原文にある傍点は省略した)。
租税法学や財政学において度々議論になるのが、国税には応能負担の原則が適用され、地方税には応益負担の原則が適用されるという一種の公理である。これは、ドイツにおいて、著名な財政学者であるシャンツ(Georg von Schanz)とヘンゼル(Paul Haensel)との論争でクローズアップされた問題であり、現在では、一般的にこの公理が妥当と考えられているようであるが、必ずしも十分に証明がなされていない。しかし、国税が一般的に所得の再分配やナショナル・ミニマムの実現に関わるものであるのに対し、地方税は地域の行政サービスの原資であり、そのサービスなどによって多くの利益を受けるものが負担することが望ましい、という理由があげられており、また、地方税については地方自治法第10条第2項に規定される負担分任原則に根拠を求められる、とされている※。
※この部分は、岡田正則「税条例と地方税法」『地方税の法的課題』(日税研論集46号、2001年)11頁による。
応能負担原則とは、「国民の租税負担がそれぞれの国民の租税を負担しうる個人的な経験的な経済的能力、つまり、国民の担税能力に相応しているものでなければならない」という原則である※。もう少し簡単に言えば、納税義務者がその負担能力に応じた納税義務を負うということである。これを課税の側に直せば、納税義務者の資力など担税力に応じた課税を行うような立法を行わなければならないということである。この原則は、納税義務者の収入や収益などが高ければ高いほど、担税力が高いとみなし、資力負担能力が高いほど、高い租税負担を負わせることになる。所得税などについて用いられる超過累進税率は、応能負担原則の具体化である。
※新井隆一『租税法の基礎理論』〔第三版〕(2007年、日本評論社)78頁。
これに対し、最近、とくに税制改革などにおいて主張されるのが応益負担原則である。これは、受益者負担論的な構成をとり、能力ではなく、納税義務者が公共サービスなどから得た利益に応じて納税義務を負うということである。消費税などの間接税の多くについて、この考え方がとられ、比例税(率)や均等税(率)※となって具体化される。
※個人住民税の均等割などがこれに該当する。
憲法の規定に照らし合わせると、応益負担原則は形式的平等の議論に適合しやすい。その意味において、憲法第14条の要請には適合しうる。
しかし、日本国憲法は、単に第14条のみにおいて平等を要請しているのではない。北野博士および新井教授が指摘されるように、第25条も平等を要請するのである。あるいは、平等を要請するのは第一に第14条であるが、その際には、人々の経済的格差に着目して、第25条を必ず考慮に入れなければならない。第25条は生存権に関する規定であるから、結局、第14条と第25条の両方により、実質的平等の実現が求められることになる。
応能負担原則は、租税法において実質的平等の実現を図るための原則である。北野博士は、まさにその点を重視し、国税であれ地方税であれ、憲法上は応能負担原則以外に成立しえないと主張する。また、新井教授は「租税負担平等の原則とは、実体的には、租税の応能負担の原則にほかならない」と指摘する※。
※新井・前掲書78頁。
実質的平等に関する議論を行う際に、憲法第13条を忘れてはならない。この規定は、直接的には法的平等の原則を示すものではない。しかし、形式的平等のみでは個人の尊重が捨象される危険性もある。実質的平等の要請は、まさに個人の尊重のためであり、納税義務についても同条を念頭に置かなければならないのである。新井教授は、憲法第13条および第25条第2項からの演繹的帰結、および第25条第1項からの帰納的帰結として「個別の国民の担税能力とその経済的生活維持能力とは別異のものであり、担税能力を有する個人の経済的能力の最低限は、個別の国民の具体的な『健康で文化的な最低限度の生活』維持能力と租税支払能力の和でなければならない」と述べる※。
※新井・前掲書79頁。
また、応益負担原則は、一見するとわかりやすいかもしれないが、実のところ、その内容は不明確である。そればかりか、「応益原則」という言葉になると、論者によって意味が異なりうるにもかかわらず、必ずしも明確にされないままに用いられており、少なからぬ混乱をもたらす※。
※拙稿「地方消費税再考―地方税財政権の観点から―」税制研究55号(2009年)95頁。
応能負担原則の場合は、納税義務者の担税力として収入や財産の保有量などに着目するため、不完全ではあっても納税義務者の租税負担能力を測ることができる※。地方財務研究会編『地方財政小辞典』(2011年、ぎょうせい)24頁は、応能負担原則を「きわめて抽象的な原則であり、この原則だけで租税の配分を具体化することはできない」とするが、これは端的に、根本的な部分について理解を誤ったものと評価せざるをえない。応益負担原則のほうが「きわめて抽象的な原則であり、この原則だけで租税の配分を具体化することはできない」のである。応能負担原則を採用する場合、所得の金額、財産の保有量などという具体的な標識を用いることができる。これに対し、応益負担原則を採用する場合には、これらの具体的な標識ではなく、「利益」という非常に抽象的な標識によらざるをえない。
※もっとも、応能負担原則に問題があることも認めざるをえない。加藤久和『世代間格差―人口減少社会を問いなおす』(2011年、ちくま新書)41頁は「応能負担原則とは負担能力の大きさに応じて負担を行うべきものであるとするものである」(太字は原文傍点強調箇所)とした上で「負担能力をいかに測るのか、そもそも負担能力は所得でみるのか、それとも資産なのか、などの一致した見解はない」と述べる。
地方財務研究会編・前掲書24頁の「応能原則」の項目には、他にも問題がある。「応能原則からは、例えば所得、財産の大きなものほど重く、消費については奢侈的なものに重く課税するとともに、最低生活費を免税するという問題も生じる」という記述である。いったい、この部分の何が問題なのであろうか。所得や財産の「大きなものほど重く」課税されるのは当然と言えるのではないか。消費についても、奢侈性が皆無、または著しく低いものほど「重く課税」されるほうがよほど異常である(消費税の導入後も酒税やたばこ税が維持されているのは、それらが嗜好品であるということも理由となっているはずである)。さらに看過しえない重大な過誤は「最低生活費を免税するという問題も生じる」という部分である。いったい誰が執筆したのかはわからないが、「何を考えているのか?」と首を傾げざるをえない。国民・住民の最低生活費を保障するのが国家や地方公共団体の任務の一つではないのか。最低生活費についても課税を免れないことが正しいというのは、私人に対する公の収奪を無条件に認めることに等しい(少なくとも、その第一歩である)。このような考えを抱く者が、公行政に携わるべきではない(まして、政治に関わるべきではない)。応益負担原則を強調する者の本音が、はしなくも公刊されている小辞典に示されていることに、日本の社会が抱える根深い病巣の一端が見受けられる。
しかも、応益負担原則の場合、公共サービスから得られるという利益の算定可能性が問われる。完全に不可能とは断言しえないかもしれないが、警察活動、消防活動、国道や公道の利用などを個人のレベルで正確に算定することは不可能であろう※。このような状態において、納税義務者の負担を確定することなど無理である※※。その意味において、応益負担原則は、少なくとも課税の第一原則とはなりえない。
※詳細は、岡田・前掲11頁を参照。ここで、利益を多く受ける者が大きな納税負担を負うべきであるという命題を是認するとしても、例えば警察の治安維持活動によって生命や財産などの安全が保障されるというのであれば、応能負担原則をとっても説明が可能ではないであろうか。少なくとも、説明可能な部分はあるものと考えられる。逆に、累進課税と応益負担原則とが全く結びつかないと考えることもできないのではないかと思われる。結局、応益負担原則や受益者負担論は、一般に思われているほどには中身の充実したものであると言えないのではなかろうか。
※※加藤・前掲書41頁も「応益原則ではその便益をいかに計測するのか」について「一致した見解はない」と指摘している。そもそも、仮に利益が算定不可能であることが前提とされているならば、それは開き直りであるというしかなく、社会科学上の議論としてはあまりにお粗末なものである。いずれにせよ、議論の出発点からして、応益負担原則を過度に強調する見解は、科学的な思考方法ではなく、一種の信仰告白と言うべき態度をとるものと評価せざるをえない。
近年、過度に応益負担原則が強調されているが、これは、実質的公平を破壊するのみならず、高額所得者の租税負担を不当に軽減することにより、財政赤字などを悪化させるという破滅的効果を含んでいることに注意しなければならない。クリントン政権の下で財政赤字の解消を達成したはずのアメリカで、ブッシュ政権になってから急速に財政赤字の幅が拡大したのは、1%とも言われる高額所得者のみを優遇する減税政策がとられたことが、一つの原因となっている。そのような政策は、貧富の格差を拡大させ、社会の矛盾をも増大させる。日本においても、バブル経済期以降、所得格差が拡大し、社会の不平等度も広がる一方であることが指摘されている※。応益負担原則が完全な誤りであるとまでは言いえないが、応能負担原則に立ち戻る必要があると考えられる。
※このことについては様々な文献が存在するが、さしあたり、この議論の火付け役ともなった橘木俊詔『日本の経済格差―所得と資産から考える―』(1998年、岩波新書)、同『家計からみる日本経済』(2004年、岩波新書)、および同『格差社会―何が問題なのか―』(2008年、岩波新書)を参照。また、この問題については、大竹文雄『日本の不平等―格差社会の幻想と未来―』(2005年、日本経済新聞社)など、類書も多い。そればかりか、昨今の格差社会論の流行により、経済学、社会学などを中心に氾濫しているとも言いうる。
もっとも、応能負担原則と応益負担原則は、通常理解されるような対立的概念であるとは言い切れない。応能負担原則も、国や地方公共団体が供給する行政サーヴィスから国民や住民が利益を享受するという事実を無視するものではない。むしろ、この事実を前提としつつも、受益という曖昧模糊とした基準ではなく、それとは一応異なって比較的に具体的な基準である納税義務者の担税力をもう一つの核的要素と位置づけるのである※。さらに言うならば、応益負担原則から比例税率または均等課税が導き出され、累進課税が排除されると理解すべき根拠が存在しないということも、ここで指摘しておく必要がある※※。
※拙稿・前掲95頁。これは、同「個人住民税の寄付金控除制度―『ふるさと寄付金控除』制度と『ふるさと納税』制度についての若干の検討」税務弘報56巻3号(2008年)107頁(注15)において端的に述べたことである。なお、武田公子「税源移譲の積み残し課題」地方税58巻7号(2007年)12頁、15頁を参照。
※※拙稿・前掲税制研究55号95頁。谷山治雄『ものがたり税制改革』(1998年、新日本出版社)197頁も参照。
2.租税立法と公平負担の問題
租税の公平負担は、応能負担か応益負担かというレヴェルにおいてのみ問題となる訳ではない。日本国憲法第14条第1項の趣旨は、当然ながら租税法、とりわけ租税立法に求められる。もとより、憲法によって要請される平等は絶対的平等ではなく、合理的な事由に基づく差別(区別)が許されるという意味における相対的平等である。そのため、法律などが不合理な事由に基づく差別的な取り扱いを規定しているか否かが問われることとなる。しかし、租税立法(に限られないが)に際しては一定の裁量が認められることも事実である。従って、公平負担は立法裁量の限界の問題として論じられるべきものとなる。
これまで、租税の公平負担との関連で問題とされた租税立法は多い。ここでは、その中からとくに重要なものを取り上げておく。
(1)超過累進税率
前述のように、所得税などについて用いられる超過累進税率は、応能負担原則の具体化であるが、憲法第14条第1項のみを形式的に解釈した場合には、平等原則違反の問題が生じる。実際に、判例こそ存在しないが、学説などにおいて合憲性が疑問視されてきた。
しかし、これも既に述べたことであるが、日本国憲法は、単に第14条のみにおいて平等を要請しているのではない。憲法自体も、第15条、第24条、第26条および第44条に、個別の分野に関する平等の原則を定める。
そればかりでなく、第25条を念頭に置かなければならない。この規定は、正面から平等原則を規定していない。しかし、第1項が「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定しているように、第14条のみによっては明確にならない実質的平等の保障が第25条第1項によって裏付けられる※。租税法との関連で記すならば、形式的平等の保障のみによっては是正されえない経済的格差を相当程度にまで是正することが要請される。そのことからすれば、超過累進税率は実質的平等を図るために必要であり、憲法に違反するという見解は根本的に妥当性を欠く。
※このことは、新井隆一教授、北野弘久博士などの租税法学者によって指摘されるのであるが、何故か憲法学者による指摘を目にしない。多くの憲法学者がいかに財政の分野について研究を進めず、むしろ軽視してきたかということを端的に示している。私が早稲田大学大学院法学研究科の学生であった時、新井隆一教授は、何度となく、私にこのことを言われた。
もっとも、近年、超過累進税率、あるいはより一般的に累進税率(累進課税)は、一部の論者から敵視、とまでは言わなくとも、疑問視されている。その例として、朝日新聞2013年10月2日付朝刊17面13版の「耕論 増税は決めたけど」の中にある、「乏しい『正当性』、説得力なし」と題された、北海道大学の橋本努教授へのインタビュー記事を取り上げておこう。
この記事において、橋本教授は、新自由主義も多様化しており、「北欧型新自由主義」という変種が存在すると述べている。そして、その特徴は「所得税の累進課税のように政府による裁量の幅が大きい制度よりも、全員に一律の高い消費税率を課すという発想」であると述べている。インタビュー記事であるからやむをえない点もあるとはいえ、この主張は端的に意味不明であるとしか言いようがない。 租税法学の立場からすれば、ここでいう裁量が租税法を執行する際の裁量、すなわち行政裁量であるとは考えられない。納税義務者に対する税率の適用に裁量が認められるとするならば、適正な課税など期待しえないので、行政裁量の行使が違法とされるであろう。また、そのような裁量を認める法(法律など)が存在するならば、憲法に違反することとなる(「03 租税法律主義」も参照)。
従って、橋本教授が言う「裁量」とは立法裁量のことであろう。もしくは(表現に正確性なり精密性なりが欠けるが、仮の名称として)「政策決定における裁量」と表現してもよいであろう。いずれにせよ、税率は法律によって決定されなければならないので、帰するところは立法裁量である。推測するならば、橋本教授は、所得税などで採用される累進課税には立法裁量が認められるが、消費税のような比例税率、単一税率であれば、立法裁量は認められない、と主張したいのであろう。
しかし、少し考えればすぐにわかるが、この主張は支離滅裂であるというべきか、論理として、否、それ以前に話としても成立しない。スウェーデンなどの国で真剣に説かれているのかもしれないが、そうであるならば、日本において最初に行うべきは、見習うこと、真似すること、取り入れることではない。端的に切り捨てること、または批判することである。何も殊更に難しく考える必要はない。
いかなる租税であっても、立法裁量が認められる。勿論、憲法によって認められる枠の範囲内である(憲法第84条、第30条、第41条などを参照)。このような単純な事実が、何故、累進課税について妥当するのに、付加価値税、消費税については妥当しないのか。この時点において意味不明な議論となっている。
そもそも、財政について、税制について、労働環境について、災害対策について、その他あらゆる事柄について、立法裁量、政策決定における裁量が認められるのは当然のことである。税制に話を絞るならば、経済情勢などに鑑みて、具体的にいかなる税制を採用するかということは、時の政府(ここにおいては立法権と行政権を念頭に置いている)が決めることであろう。少しばかり具体的に記すと、誰が課税権者となるか(国か都道府県か市町村か)、誰が納税義務者となるか、何を課税物件とするか、課税標準をどう表すか、そして税率をどのように設定するか、ということである。
おそらく、橋本教授の主張は、累進課税の場合は複数の税率を採用することになるため、税率の設定に関する立法裁量が増大するということであろう。それなら意味が通じてくるとも考えられる。但し、これは当然のことで、単一の税率を決めるよりも難しいためである。
しかも、累進課税を採用するにしても、税率の設定に一定の限界がある。換言すれば、裁量の行使に限界があるのは当然である。まさにその限界の一つが憲法であり(第13条、第14条、第29条、第25条などを参照)、社会情勢、経済情勢、財政状況などによる限界もある。他の租税との関連も考慮に入れなければならない(タックス・ミックスの問題)。
以上のような限界は、当然、付加価値税(日本の消費税もその一種)にも妥当する。実に単純な話で、税率を5%にするか8%にするか10%にするか25%にするか、こういうことはまさしく立法裁量である。
また、付加価値税などの間接税についても、税率決定だけに裁量が認められる訳ではない。課税主体をどうするかという問題も存在するし、納税義務者を誰にするかという問題は避けられない(これが簡易課税制度にもつながる)。課税物件については、現在の日本の消費税法第6条、およびこれを受けた別表第一と別表第二が一定の非課税取引を定めている。その範囲を決めるにも立法裁量が認められる。税率について記すならば、軽減税率の導入の可否なども問題となる。
仮に、超過累進課税、より一般的に累進課税が「官僚の裁量を増やす」という命題が正しいのであれば、比例課税、一律課税も「官僚の裁量を増やす」場合がある。量的な相違はあるものの、質的な差はないと言いうる。
橋本教授の主張を敷衍して、さらに記しておく。
新自由主義としてまとめられる思想の多くに共通する点は、実質的平等を実現しようとする志向がなく、平等を非常に形式的に捉えていることである。選挙権の平等と同じように考えている、と表現すればよいのであろうか。1990年代から大蔵省・財務省が主張し続けている、所得税の課税最低限の問題を想起していただきたい。新自由主義の立場からすれば、累進課税による所得の再分配は企業間の競争を阻害しかねない「余計なお世話」なのであって、実際の負担能力などに関係なく、全員が一律の割合または金額を負担するような税が望ましいであろう。その意味において、付加価値税はうってつけである。また、論者によっては人頭税を高く評価する。付加価値税以上に人頭税が、新自由主義にとって相応しい税であるとも言えるためである。
労働環境の整備を必要とするということは、それだけ、負担能力の低い者が多いということ、あるいは、負担能力に無視しえない格差が存在するということを意味する。仮に負担能力に格差が見いだされないのであれば、敢えて労働環境を整備する必要性など存在しえないからである。高い税率による負担を一律に課して調整するというのであるから、よほど制度設計がしっかりしているのであろう。還元率が高くなければ、多くの人々の理解を得られない。
(2)源泉徴収制度
俗に天引きとも言われる源泉徴収制度は、所得税法第181条以下に定められるもので、利子所得、配当所得、給与所得、退職所得、公的年金等に係る雑所得、報酬、料金、契約金または賞金に係る所得などについて、その所得の支払いをなす者に対し、支払うべき金額から所得税を計算した上であらかじめ徴収し、一定期日までに国に納付させる制度である※。徴税の便宜を図るために採用されているが、とくに給与所得者の納税者意識を低めるものとして以前から強く批判されている。
※源泉徴収制度そのものではないが、類似の制度が他の若干の国税についても存在していた。また、地方税法の特別徴収制度も、源泉徴収制度に類似する。
裁判において源泉徴収制度の合憲性が争われた事例として著名なものは、最大判昭和37年2月28日刑集16巻2号212頁(株式会社月ヶ瀬事件)である。上告人は、源泉徴収制度が憲法第29条、第14条などに違反すると主張していたが、最高裁判所大法廷は、上告人の主張を退けた。
まず、第29条違反の主張に対しては、「給与所得者に対する所得税の源泉徴収制度は、これによつて国は税収を確保し、徴税手続を簡便にしてその費用と労力を節約し得るのみならず、担税者の側においても申告、納付等に関する煩雑な事務から免れることができる。また、徴収義務者にしても、給与の支払いをなす際所得税を天引しその翌月10日までにこれを国に納付すればよいのであるから、利するところ全くなしとはいえない。されば源泉徴収制度は、給与所得者に対する所得税の徴収方法として能率的であり、合理的であつて、公共の福祉の要請にこたえるものといわなければならない」と述べている。また、源泉徴収義務者の負担は第29条第3項による補償を必要とする場合に該当しない旨をも述べている。
次に、第14条違反の主張に対しては、「租税はすべて最も能率的合理的な方法によつて徴収せらるべきものであるから、同じ所得税であつても、所得の種類や態様の異なるに応じてそれぞれにふさわしいような徴税の方法、納付の時期等が別様に定められることはむしろ当然であつて、それ等が一律でないことをもつて憲法14条に違反するということはできない」とした上で、源泉徴収義務者の義務が「憲法の条項に由来し、公共の福祉の要請にかのうものであることは」第29条との関連について述べたところにより明らかである、と述べている。この判決について、金子宏教授は「用語や論理には、問題が少なくない」と述べつつも、徴収確保の必要性が認められ、および徴収納付の方法を採用することに合理性が認められるのであれば、源泉徴収制度を採用することが第14条に違反しないと述べる※。また、金子教授は「事業所得者にも予定納税の義務が課されている」ことを指摘し、源泉徴収制度が給与所得者を事業所得者に対して不当に差別するものではない旨を述べる※※。
※金子・前掲書807頁。
※※金子・前掲書807頁。
源泉徴収制度に関するものとして、総評サラリーマン訴訟も著名である。この訴訟においては、源泉徴収制度の他、給与所得に必要経費が認められないことなどの合憲性が争われていたが、最三小判平成元年2月7日訟務月報35巻6号1029頁は、源泉徴収制度について最大判昭和37年2月28日刑集16巻2号212頁を引用して合憲と判断している。また、この判決は、給与所得に必要経費が認められないことについて、最大判昭和60年3月27日民集39巻2号247頁(大嶋訴訟)を参照しつつ、事業所得者との区別が合理的であって憲法に違反しないと述べている。
(3)必要経費控除
所得税法にいう所得は、収入そのものではなく、基本的に、収入を得るために支出する必要がある経費を収入から差し引いて残るものをいう。詳細は第二部において述べるが、給与所得については、事業所得などと異なって必要経費控除が認められておらず、その合理性に関して議論がある。
事業所得などの場合、必要経費控除として、収入を得るために実際に支出した額を控除することが認められる(実額控除)。これに対し、給与所得の場合は、実額控除ではなく、法定の概算経費控除としての給与所得控除、および、特定支出控除が認められている。この給与所得控除が比較的高く設定されているために、通常は問題にならないが、特定支出控除が認められていることからして、実際の経費が給与所得控除の額より高くなることもありうる。その場合であっても実額控除が認められないために、公平課税の面から問題があるとされるのである。
裁判において争われた事例として著名なものは上記の大嶋訴訟である。前掲最大判昭和60年3月27日は「租税法の分野における所得の性質の違い等を理由とする取扱いの区別は、その立法目的が正当なものであり、かつ、当該立法において具体的に採用された区別の態様が右目的との関連で著しく不合理であることが明らかでない限り、その合理性を否定することができない」などとして、給与所得控除の制度が憲法第14条に違反しないと判断している。この趣旨は、前掲最三小判平成元年2月7日にも引用されている。
(4)ゴルフ場利用税
ゴルフ場利用税は、地方税法第75条以下によって都道府県税として課されるものである。ゴルフ場の利用に課される直接消費税であるが、他のスポーツ施設の利用には同種の税が課されないため、公平原則に違反するか否かが問題となる。
旧娯楽施設利用税の時代の判決であるが、最判昭和50年2月6日判時760号30頁は、ゴルフ場の利用料金が高額であるのに対し、他のスポーツ施設の場合は大衆的で利用料金もそれほど高額ではないこと、ゴルフ場の利用者が他のスポーツ施設の利用者に比して高額所得者に偏っていることなどを理由として、合憲と判断した。
(5)租税特別措置
実際には今まで最高裁判例が存在していないが、租税特別措置は、憲法第14条第1項との関連において公平性を損なうおそれがあるものとして、問題となりうる。仮に担税力などにおいて同様の状況にある者が複数存在したとして、特定の要件に該当する者については租税の負担を軽減し、または加重するならば、これらの者の間で格差が生じうる。
実際に存在する租税特別措置は多種多様であるが、結局、特別措置の政策目的の合理性、および、その政策目的のための手段としての有効性、さらに、公平負担の阻害の程度などに照らして合憲性を判断せざるをえない、ということになるであろう※。
※金子・前掲書86頁。
3.租税法の執行と公平負担の問題
法の執行においても、とくに行政裁量が認められる場合に公平負担が問題となる。
まず、相続税法については、相続において取得した財産の評価が問題とされる。一応の原則は第22条に示されるが、地上権、永小作権、定期金に関する権利および立木については相続税法に評価の仕方が規定されるものの、その他については明示されておらず、財産評価基本通達という国税庁の通達によって評価が行われている。このこと自体に疑問が寄せられるところであるが※、少なくとも、この通達による評価が一般的に行われているのであるから、特定の納税者についてのみ、他の評価方法が採られることは、合理的な理由がない限り許されない※※。
※この点については、さしあたり、拙稿「社団たる医療法人の出資持分の評価について、相続税法9条にいう『著しく低い価額の対価』に該当しないとされた事例」速報判例解説編集委員会編『速報判例解説』(法学セミナー増刊)4号(2008年)250頁、およびその注に示した文献も参照。
※※通達自体は行政規則にすぎず、行政主体の内部において法的拘束力を有するにすぎず、裁判所および一般国民に対する法的拘束力を有しない。換言すれば、通達には外部的効果が認められないのである。従って、通達とは異なる財産評価方法によることが直ちに違法となる訳ではない。しかし、不特定多数の納税者について反復的・継続的に適用されている場合には、合理的な理由がない限り、通達によらない財産評価が許されないこととなる。
次に、やはり財産の評価に関する例として、固定資産税の課税物件である固定資産の評価がある。現在、この評価は、一般的に時価よりも低いものとなっている。そのため、周囲の土地と比較して或る土地が高く評価されている場合には、仮にそれが時価の範囲であるとしても違法となりうる※。
※判例として、宇都宮地判昭和30年12月24日行裁例集6巻12号2805頁、静岡地判昭和34年6月16日行裁例集10巻6号1201頁などがある。なお、大阪高判昭和44年9月30日高裁民集22巻5号628頁を参照。
この他、事業税について東京地判昭和59年9月28日判時1140号67頁がある。この判決は、公益法人などが行う社会保険診療による所得に課せられる事業税についてのものであり、地方税法第72条の14第1項但書(当時)によって課税が除外される医療法人の扱いをその他の法人に拡大することが許されないとしているものである。
4.課税の限界
いかに国民が法律または条例によって納税義務を負うとはいえ、その中身がどのようなものであってもよいという訳ではない。そこには、憲法などによる限界が存在する。例えば、憲法第14条に定められる平等原則(平等権)を侵害するような租税であってはならないし、憲法第29条に定められる財産権の保障の意味を無にするような租税も認められない。
しかし、多くの租税法の教科書において、課税の限界が一般論として、しかも具体的な事例などを基にして論じられることは少ない。その理由として、憲法学において議論されることが少なかったことがあげられるかもしれない※。初期の憲法学説において納税の義務は財産権の内在的制約と考えられており、それが現在にまで影響を及ぼしているようである※※。
※例えば、芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』〔第五版〕(2011年、岩波書店)には、納税の義務に関する説明がない。第13条や第22条との関連は、酒税法の合憲性などという形で論じられるが、これは課税の限界に関する議論ではない。
※※三木義一編著『よくわかる税法入門』〔第7版〕(2013年、有斐閣)65頁[佐々木潤子担当]。 谷口勢津夫『税法基本講義』〔第3版〕(2012年、弘文堂)20頁も参照。
これまでの講義の流れからすれば、一つの限界として応能負担原則をあげることができるのは自明である。しかし、既にみたように、課税最低限についての立法裁量という壁に突き当たる。そして、同様のことが課税最高限(所有権保障を侵害しない程度での課税の最高限度)についても妥当するのである。
ここでは、バブル経済崩壊によって具体化した相続税の問題を取り上げる。
相続税は、基本的に相続人が被相続人の一切の相続財産を承継することによって課される。その際、被相続人の財産を金銭に評価しなければならない。相続税法第22条は相続による取得時の時価とすることを定め、その具体的な評価などについては財産評価基本通達などが定める※。
※宅地の場合をあげると、市街化地域であれば路線価方式、それ以外の地域であれば倍率方式である。かつて、土地の評価額は、公示価額によるとはいえ、実際の取引価額よりも、そして土地の価格上昇に比しても低く抑えられていたので、時価主義と実際との乖離が甚だしく、租税回避行為も頻繁に行われていた。そのため、評価額の算定基準を改めて評価額を上昇させるとともに、租税特別措置法により、相続開始前の3年以内に取得した土地については、その取得時―相続時ではない―の価格を評価することとした。しかし、土地の価額が下落し続け、相続時の評価よりも土地の取得時の評価のほうが高くなり、相続財産全体の評価額よりも納税額が高いという現象が東京などを中心に多発した。これでは、相続財産を取得できないばかりか、それよりも高額の税負担を強いられるため、実質的に財産の没収と異ならないことになる。
この問題は、裁判所で争われた。そして、大阪地判平成7年10月17日判時1569号により、ようやく、この特別措置について違憲の疑いが濃いと判断された。但し、違憲であるという断定はされていない。これに対し、控訴審判決である大阪高判平成10年4月14日訟務月報45巻6号1112頁は、この特別措置が憲法に違反しないと述べている。但し、減額更正処分がなされており、その上で原処分を適法としている。この他にも、この特別措置が憲法に違反しないと判断した判決がいくつか存在する。なお、この特別措置は平成7年度末をもって廃止された。
この他の租税については、具体的な問題になったことがないということもあり、あまり論じられていない。所得税の税率が100%であったら違憲であることは間違いない。また、外形標準課税として収入金額(所得ではない)に対して100%の税率を定めれば、一層、違憲性は強くなる。
しかし、具体的に何%までなら許容されるのかという問題は、意外に難しいものである。消費税などの間接税については、いっそうの難問となる。また、例えば固定資産を運用して収益をあげているという場合に、その収益の範囲内において固定資産税の負担が課されるのであれば、所有権そのものの侵害には該当しないので、違憲性は生じないと考えられる。しかし、例えば持ち家のように、運用して収益をあげることが予定されていない場合に、土地など固定資産の取引価格を評価方法のベースとすることには、疑問が生じる※。
※ちなみに、固定資産税の税率は、地方税法第350条第1項により、課税標準たる固定資産の価格(同第349条)の1.4%とされているが、これは標準税率であり、これ以上あるいは以下であってもよい。但し、同第2項による制約がある。
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(2011年3月16日掲載)
(2011年3月21日修正)
(2011年3月31日修正)
(2011年9月13日補訂)
(2012年7月11日修正)
(2012年8月5日修正)
(2013年8月1日修正)
(2013年10月17日補訂)