地方公共団体の名誉権享有主体性についての試論
(はじめに)
本論文は、早稲田法学81巻3号(西鳥羽和明教授追悼号。2006年)305頁〜333頁に掲載されたもので、このホームページにも掲載している「サテライト日田をめぐる自治体間対立と条例―日田市公営競技の場外券売場設置等による生活環境等の保全に関する条例―」(月刊地方自治職員研修2001年5月号27頁〜29頁)、および「場外車券売場設置許可無効確認請求事件 平成15年1月28日大分地裁判決・平成13年(行ウ)10号」〔法令解説資料総覧第256号(2003年5月号)120頁〜122頁〕、および「地方公共団体の名誉権と市報掲載記事―大分地方裁判所平成14年11月19日判決の評釈を中心に―」〔大分大学大学院福祉社会科学研究科紀要第1号(2004年)21頁〜30頁〕とともに、不定期連載「サテライト日田(別府競輪場の場外車券売場)建設問題」の姉妹編として位置づけられます。
そして、この論文をもって、私が2000年6月下旬から関わってきたサテライト日田問題に、一つの区切りをつけたいと思っています。実際に、そのつもりで作成しました。但し、単にサテライト日田問題のみを取り上げたものではありません。「地方公共団体の名誉権と市報掲載記事―大分地方裁判所平成14年11月19日判決の評釈を中心に―」は、あくまでも判例評釈でしたし、掲載誌も、第1号という或る意味では輝かしいものではありますが、それほど全国的にも普及していないものでした。地方公共団体の名誉権が争点となった裁判が、非常に少ないながらも存在しており、しかも行政法学、民法学のいずれもほとんどこの問題を扱っていないということを知り、補充の意味なども合わせてこの問題に関してなるべく詳しく論じたものを法学関係雑誌に掲載させたいという思いがあり、それが、不十分な形ではありますが実現することとなりました。なお、この論文の注にも記していますが、経緯の関係もあって、「地方公共団体の名誉権と市報掲載記事―大分地方裁判所平成14年11月19日判決の評釈を中心に―」と重複する部分が少なくないことを、お断り申し上げておきます。
地方公共団体の名誉権というものを考察する論文は、私の「地方公共団体の名誉権と市報掲載記事―大分地方裁判所平成14年11月19日判決の評釈を中心に―」を除けば、日本の公法学において存在しないようです。おそらく、このようなテーマでの論文は日本初、さらに言えば世界初かもしれません。
西鳥羽和明教授の急逝は2005年3月のことでした。それから程なく、追悼論文集の話が出て、昨年の夏まで資料を集めたりしたものの、9月に入ってから余裕がなくなり、一時は断念しました。しかし、昨年の12月、私の大先輩にあたるS.S.先生からのメールのおかげで、気を取り直し、年末年始をあてて書くことができました。昨年の早稲田大学法職課程教室における講義を担当させていただいたことと合わせて、この場を借りて御礼を申し上げます。
昨年度の4月から10月まで、私は、早稲田大学法職課程教室における公務員試験講座の行政法の講義を担当いたしました。西鳥羽先生は、この講義を2004年度に担当されておりましたので、私はいわば後任という形でした。毎回のレジュメを、日曜日などをあてて作成する際には、西鳥羽先生が作成されたレジュメを大いに参考とさせていただきました。このことを、ここで記しておかなければなりません。
この場をお借りして、サテライト日田問題に関係された皆様方に、改めて御礼を申し上げます。そして、西鳥羽和明先生に、改めて御冥福をお祈り申し上げます。
第一章
問題の所在第二章
地方公共団体の人権享有主体性第三章
名誉権をめぐる判例(1) 地方公共団体対私人・私法人第四章
名誉権をめぐる判例(2) 地方公共団体対地方公共団体第五章
おわりに
第一章 問題の所在
公法・私法二元論は、行政法学において、民法などからの行政法の独立性を主張するために提唱されたものである。しかし、近年は、実体法の解釈に際しての有用性に疑問がよせられ、少なくとも、現在において公法・私法二元論の優越性は、完全に否定されるとまでは言えないまでも、行政法学におけるドグマティークとしては成立しえなくなりつつあると言えよう。少なくとも、或る法律の規定が公法であるか私法であるかという問題は、事案の妥当な解決のための決定打とはならない(1)。
行政法学における公法・私法二元論についての批判は、主に国または地方公共団体と私人(個人)との法律関係についてのもの、すなわち、基本的に行政作用法の領域におけるものである。もとより、行政活動のすべてが国、地方公共団体などの公共団体によるものではなくなっており、公法・私法二元論に還元することの妥当性は薄められており、行政主体すなわち公法人という図式は成立しなくなっているとはいえ(2)、行政作用法の領域と比較するならば、行政組織法の領域においては公法・私法二元論が今も根強く残っていると考えることが可能ではなかろうか。このことは、端的に、地方公共団体の人権享有主体性に関する議論が従来の行政法学や憲法学などにおいてほとんどなされていなかったことに示されている。
私法人が人権(基本的人権または基本権(3))の性質次第で人権享有主体となりうるとされているのに対し(4)、公法人、とくに地方公共団体についてはそもそも人権享有主体性が論じられることはほとんどない。日本国憲法が国民主権原理を採用し、地方自治についても団体自治および住民自治の原理を採用すること、地方公共団体にも一定の公権力作用を認めることからすれば、原則として、地方公共団体は、公権力の行使の主体たる公法人であるが故に、人権享有主体性が否定されるべきこととなろう。しかし、公法人の一つとされる地方公共団体についても私法の適用があり、公法関係のみならず私法関係の主体ともなりうることは否定できない。また、憲法第92条が地方公共団体の組織および運営について「地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」とし、憲法第94条、およびこれを受けた地方自治法第14条第1項は、地方公共団体の条例制定権を「法律の範囲内」または「法令に違反しない限り」としていることから、地方公共団体が有する公権力の行使の主体としての側面は(国に比較して)限定されたものである。そのため、地方公共団体にも、限定的ではあれ人権享有主体性が認められるのではなかろうか。
地方公共団体の人権享有主体性は、最高裁判所の判決においてまだ正面から判断されたことはないが、ここ数年、地方公共団体の名誉権の有無が争われた事件について下級審の判決がいくつか出されることにより、改めて検討されるべき課題となっている(5)。
かつて、私は、日田市対経済産業大臣事件において問題となった、行政事件訴訟における地方公共団体の原告適格の問題、および日田市対別府市事件において問題となった、地方公共団体の名誉権享有主体性について論じた(6)。いずれもサテライト日田問題に関するもので、当時の通商産業大臣が行った場外車券売場設置許可をめぐり、地方公共団体が原告となって設置許可無効確認訴訟を提起するという極めて異例の事態になり、さらに日田市が別府市市報掲載記事をめぐって別府市に訂正記事の掲載を求める訴訟を提起したことで全国的な注目を浴びた。しかし、学界の注目は専ら日田市対経済産業大臣事件のほうに集まり(7)、日田市対別府市事件にはさほどの関心も寄せられていなかった。
この事情は地元の日田市(ないし大分県全体)においても同様であり、毎回のように大分地方裁判所第1号法廷および福岡高等裁判所第5号法廷の傍聴席が埋め尽くされた日田市対経済産業大臣事件とは対照的に、日田市対別府市事件については日田市民の関心も薄かった。しかし、第四章において取りあげる別府市報掲載記事問題などにより日田市と別府市との関係がいっそう悪化したことなどから、当時大分市に居住していた私は、日田市対別府市事件の帰結こそがサテライト日田問題の帰趨に重大な影響を及ぼすと考えていた。実際、この問題について2000(平成12)年6月以降に示された一連の別府市執行部の対応には、日田市が訴訟を提起するきっかけとなった市報掲載記事問題を頂点として、日田市民は当然として別府市民や別府市議会からも批判が浴びせられており、これが2001(平成13)年2月の別府市議会臨時会においてサテライト日田設置関連補正予算案が否決される原因ともなった(8)。市報掲載記事問題により、別府市は、一時的ではあれ、実質的にサテライト日田設置推進を凍結せざるをえなくなった。
結局、日田市対経済産業大臣訴訟が控訴審(福岡高等裁判所)の段階で争われている最中、別府市は2003(平成15)年11月10日にサテライト日田設置の断念を表明し、これを受けて日田市は訴訟を取り下げた。
他方、日田市対別府市事件について、後掲大分地方裁判所平成14年11月19日判決は、地方公共団体の名誉権享有主体性を正面から認めた。しかし、同判決は、名誉権享有主体性が認められる範囲について不明確な点を残した。
本稿は、この日田市対別府市事件を一つの契機として、地方公共団体の名誉権の有無、およびそれが認められる範囲について、検討を試みるものである(9)。
第二章 地方公共団体の人権享有主体性
地方公共団体に名誉権が認められるか否かという問題は、地方公共団体が人権享有主体性を有するか否かという問題の一環である。そのため、本稿においては、試論として、まず、地方公共団体の人権享有主体性を一般的に検討することとする。
憲法の人権条項は、国家と自然人たる国民との関係を規律するものである。従って、本来、法人は人権享有主体性を予定されていないはずである。基本的人権の根拠を何処に求めるかにもよるが、仮に、第13条に示されているように個人の尊厳を基本的人権の根拠とするならば「自然人ではない法人を人権享有主体と解することは背理であ」る(10)。しかし、現代社会における法人の活動や影響力などを考慮すれば、法人たりといえども人権享有主体性を否定することは妥当とは言えない(11)。現在、通説および判例により、法人の人権享有主体性自体は肯定され、具体的に認められる範囲について議論がなされている。
しかし、ここで前提とされている法人は私法人である。公法人である地方公共団体が基本的人権の享有主体となりうるかという問題については、行政法学はもとより、憲法学や民法学においてもほとんど議論されていない。
もっとも、地方公共団体は、地方自治法第二条第1項により法人とされている。そのため、当然、国から独立した法人格を有し、自らの名において活動を行い、あらゆる法的関係において権利および義務の主体となりうる(12)。ここにいう法的関係は公法関係、私法関係のいずれをも含むことになる。そして、地方公共団体が憲法により自治権(自治立法権、自治行政権、自治財政権)を保障されていることは、地方公共団体が統治権の主体あるいは行政主体として位置づけられていることを意味する。
おそらくはこの位置付けのためであろう、地方公共団体の人権享有主体性について意識的に取りあげる論考はほとんどない。理論上は様々な見解の存在を想定しうるが、大きく、原則的否定説、原則的肯定説、制限的肯定説の三説に分類することが可能であろう(13)。
(一)原則的否定説
この説は、地方自治法などの法令がとくに認める場合を除き、地方公共団体(などの公法人)について人権享有主体性を否定するものである。地方公共団体は法人であるが、それは地方自治法第二条第二項により「地域における事務及びその他の事務で法律又はこれに基づく政令により処理することとされる」事務の処理能力を有することを意味するのであって、私法人と同様の人権享有主体性までを認める趣旨ではないということになる。これまで、憲法学、行政法学、民法学のいずれも、おおむね原則的否定説を採る(あるいは念頭に置いている)ものと思われる。
人権は、元来、国家権力による侵害から個人の自由を保護しようとする趣旨において主張され、個人と国家との関係において捉えられるものである。このことは、自由権において顕著であるが、社会権や参政権などについても、国家との個人の関わり方を中心とすることからすれば、自由権と同様である。私法人も人権享有主体性を有するとはいえ、性質上、保障されえないものもある。結局のところ、個々の法人が有する固有の性格に応じて保障されるにすぎないということになる。
一方、日本国憲法、地方自治法などの法令が、地方公共団体を公権力の行使を担う主体の一つと位置付けていることは明らかである。
行政法学において地方公共団体が公権力の行使を担う主体として扱われていること、基本的人権が、本来、国家権力による侵害から国民の自由を保護しようとする趣旨において主張され、国民と国家との関係において捉えられることからすれば、原則的否定説が妥当すると考えられてきたものと思われる(14)。
しかし、地方公共団体についても、私法上の権利・義務の主体となる場面が皆無であるという訳ではない。公法・私法の区別を肯定する見解であっても、国や地方公共団体の行為であるから私法の適用を全く認めないということではなく、権力関係とされる場合の行為であっても民法の適用が排除される訳ではない。法の適用は、主体の性格などではなく、事案の性質により左右される。また、既に述べたように、地方公共団体が有する公権力の行使の主体としての側面は(国に比較して)限定されたものである。すなわち、地方公共団体が行使する公権力(ないし自治権)は、内容的には法令および条例に規定された事務に限定されるとともに、地域的構成要素としての区域内に限定される。
のみならず、地方公共団体は、区域、制度的構成要素としての法人格および自治権とともに、住民を構成要素の一とする。一般的に住民は人的構成要素と理解されているが、このことは、見方を変えるならば地方公共団体が社団法人としての性格を有することを意味する。民主主義的な地方自治の理念は、住民がその代表機関である議会および首長を通じて行動するというものであり、直接民主制的な側面も実際の法制度において取り入れられている。そのため、例えばまちづくり、市町村合併、環境問題などについて、一地方公共団体の意思が多くの住民の同意を得て形成される場合などには、地方公共団体そのものの名誉権の侵害を想定しうる(15)。産業廃棄物処理場の建設に際して住民投票が行われ、その結果を受けて地方公共団体Aが処理場の建設に反対の意思を表明した場合に、地方公共団体Bが広報誌などにおいて批判をする自由は認められるとしても、それが事実の誤認あるいは歪曲によるものであるならば、もはや批判の限界を超えている。また、表現の如何によっても、Aの社会的評価を不当に低下させるものとして、Aに対する名誉毀損として捉えることが可能であろう。同様のことは、例えば、私法人による批判(意見広告、ビラまきなど)についても妥当しうる場合があると考えられる。
以上のことからすれば、原則的否定説は、その趣旨などについては理解しうるし、基本的には妥当であると思われるものの、地方公共団体が私法上の権利主体としての活動をなしうるという点を看過する点において、単純に過ぎ、正当ではない。
(二)原則的肯定説
これは、地方公共団体などの公法人についても、原則として人権享有主体性を認める説である。但し、人権の性質上、享有しえないものもあるため、実質的には私法人と同程度の範囲について人権享有主体性を認めることとなる(勿論、範囲などについて完全に同じ程度であるという訳ではない)。
原則的肯定説にみられる第一の問題としては、その根拠を何に求めるかがあげられる。原則的否定説に明文の根拠がないのと同様に、原則的肯定説についても、それを裏付ける明文の根拠は存在しない。原則的否定説の場合は、地方公共団体を公権力の行使の一主体として捉えることから、明文の根拠の有無はそれほど問題にはならないと思われる。しかし、原則的肯定説は、地方公共団体に公権力の行使の主体としての側面を認めるにもかかわらず、これと矛盾しかねない人権享有主体性を私法人と同程度に認めるのであるから、何らかの積極的な根拠を必要とするはずである。
最近、名誉権に限定してではあるが、原則的肯定説を採るとみられる見解が現われている。すなわち、地方公共団体にも人格的利益の一環としての名誉権が保障されるとするのである。その理由として、私人に人格的利益の一環としての名誉権が憲法第13条により保障されること、法人や権利能力なき社団などにも名誉権が存在し、地方公共団体も地方自治法第二条第1項により法人とされることがあげられている(16)。
たしかに、地方公共団体も社会的な評価を受ける主体である。しかし、憲法が第92条ないし第94条において、地方公共団体を公権力の行使をなす主体として位置づけていることに鑑みれば、無制約に名誉権を認めることはできない。地方公共団体の活動は、絶えず国民・住民からの監視を受けることが前提とされる(団体自治および住民自治の理念からも当然のことであろう)。その監視を否定するような動きは国民主権原理の否定につながるし、かえって私人の基本的人権を侵害する結果に陥る。そのため、仮に私人が地方公共団体の名誉を侵害したとしても、刑法第230条や民法第709条・第710条・第723条が適用されるような事案はほとんど存在しないと考えるべきではなかろうか。
また、原則的肯定説をとるならば、参政権、人身の自由など、自然人にしか認められえない人権を除き、私法人とほぼ同じ程度に人権享有主体性が認められることになる。しかし、それでは地方公共団体についても思想・良心の自由および信教の自由が保障されることになり、政教分離原則も無視されうることになるため、憲法第19条および第20条の趣旨と矛盾する。仮に精神的自由権について享有主体性が認められるとしても、それは憲法の趣旨と矛盾しない限りにおいてのことであり、地方公共団体についてその余地はほとんどないと考えるべきである。
原則的肯定説は、地方公共団体が有する公権力の主体としての性格を無視する見解であり、憲法の人権規定の存在意義と矛盾するために、採りえない。
(三)制限的肯定説
この説については様々なヴァリエーションが存在しうると思われる。本稿においては、一つの型として、地方公共団体が公権力の主体として行為をなす場合(私人との間に権力関係が成立する場合)には、国民主権の原理に鑑み、地方公共団体の基本的人権享有主体性は否定されざるをえないのに対し、地方公共団体が私法上の権利主体として行為をなす場合(権力関係が成立しない場合)には、基本的に地方公共団体の基本的人権享有主体性は肯定されるべきである、という考え方をあげておくこととする。これは、後にみるように一部の判決において採用される考え方であり、明示的ではないが最高裁判例もこの考え方を前提としているのではないかと思われる(少なくとも、最高裁判例を前提として考えることは可能である)。
最三小判平成14年7月9日民集56巻6号1134頁は、傍論ながら「国又は地方公共団体が提起した訴訟であって、財産権の主体として自己の財産上の権利利益の保護救済を求めるような場合には、法律上の争訟に当たるというべきであるが、国又は地方公共団体が専ら行政権の主体として国民に対して行政上の義務の履行を求める訴訟は、法規の適用の適正ないし一般公益の保護を目的とするものであって、自己の権利利益の保護救済を目的とするものではない」と述べている。この判決は「専ら行政権の主体として国民に対して行政上の義務の履行を求める訴訟」として宝塚市の請求を却下したのであるが、限定的ではあれ地方公共団体が人権享有主体性を有することを示唆したものと理解することが可能ではなかろうか。もっとも、ここに言う「財産権の主体」が具体的にいかなる場合を想定するものであるかについては不明確な部分もあるが(17)、少なくとも、地方公共団体が私法上の権利・義務主体である場合が「財産権の主体」であることは疑いがない。
前述の理由から、原則的否定説、原則的肯定説のいずれも採用しえないため、制限的肯定説を採用するのが妥当であろう。地方公共団体が公権力の主体として行為をなす場合(私人との間に権力関係が成立する場合)には、国民主権の原理に鑑み、地方公共団体の基本的人権享有主体性は否定されざるをえない。これに対し、地方公共団体が私法上の権利主体として行為をなす場合(権力関係が成立しない場合)には、基本的に地方公共団体の基本的人権享有主体性は肯定されるべきであろう。
但し、その場合であっても、権力関係と非権力関係との区別が相対的であることなどを考慮すると、私人・私法人と全く同じ程度の人権享有主体性を認めることは難しい。そして、制限的肯定説に立つ場合であっても、地方公共団体については、人身の自由、社会権、参政権を認めることはできない。また、国務請求権についても、基本的には認められえない。但し、裁判を受ける権利(憲法第32条)については、民事訴訟および行政事件訴訟に関して地方公共団体にも保障の余地があるものと思われる(地方自治法第96条第1項第12号も参照)(18)。精神的自由権についても、国民主権の理念および住民自治の理念により、非常に限定された範囲において表現の自由が認められるにすぎないであろう。そして、経済的自由権については、地方公共団体が財産の管理主体であることから、比較的認めやすいのではないかと思われる。
本稿において対象とする名誉権は、憲法第13条により保障される人格権の一種である。制限的肯定説に立つ以上は、地方公共団体にも人格権を認めなければならない(19)。そして、名誉権享有主体性を認めうることになる。しかし、具体的にいかなる場合について認めうるのかについては、なお検討を要する。とくに、地方公共団体の名誉権については、私人・私法人による毀損がありうるのかという問題と、国、別の地方公共団体などの公法人による毀損がありうるのかという問題を分けて考察しなければならない。前者の場合には、私人・私法人による表現の自由(批判の自由)との衝突という問題が生じ、地方公共団体の名誉毀損を認めるならば私人・私法人への萎縮的効果が発生しうる。これに対し、後者の場合には表現の自由(批判の自由)との衝突は生じえず(20)、或る意味において私人・私法人対私人・私法人の場合と同様に考察することが可能である。
第三章 名誉権をめぐる判例(1) 地方公共団体対私人・私法人
地方公共団体の名誉権の有無、および名誉権が認められる範囲という問題をめぐる判例は非常に少なく、最高裁判所による判断は示されていないが、地方公共団体対私人・私法人という事件については下級裁判所の判決が散見されるので、概観し、検討を加える。
(一)岡山地判平成5年9月6日判例自治124号82頁
〔事案〕 岡山県の町X1は、地域振興を図るため、ウォーターフロント構想を策定し、A社およびB社(いずれも民間会社)に事業参加を求めた上で、三社間の協力などを約する基本協定書を作成した。また、B社は、建設部長Dの名義で町有地の払い下げを求める内容の陳情書を町議会議長宛に提出した。住民Yは、日頃ウォーターフロント構想の動向に関心を抱いていたが、基本協定書と陳情書に押捺されているDの印章の印影が異なり、陳情書に押印されたDの印章は偽造されたものであるとして、X2(町長)とA社代表Cの両名を岡山地方検察庁に告発した。これは日刊紙に取りあげられ、同紙瀬戸内版で報道された。X1とX2は、Yの告発は事実無根であって報道により名誉を毀損されたとして、Yに対して謝罪広告の掲載を求めた。
〔判旨〕 X1の請求については、次のように述べて棄却した。
「町の社会的評価、信用は、町自身に帰属するものであって、町長の個人的な社会評価、信用によるものではないから、町長個人に対する誹謗が直接町の町政運営方法に対する誹謗にもなるという特段の事情がある場合は格別、そうでない場合は、町長個人に対する名誉毀損が直ちに町の名誉毀損を構成するものではない」。「町長は町政の中心機関であり、町長の力量、声望が当該町の社会的評価にとって、事実上ひとつの大きな要素となる面が存することは否定できないところではあるが、他面、町政は、町長個人によってのみ運営されているわけでなく、町議会や町民も参加し、民主主義の原理によって執行されている」から、X2の「犯罪事実を摘示した本件告発ないし本件報道によって」X1の「名誉も毀損されたとまでは認めることができない」。
一方、X2の請求については、告発自体が名誉毀損になりうること、Yが摘示した事実について真実性の証明がなされていないことなどを理由して認容した。
〔検討〕 本判決は、地方公共団体の名誉権享有主体性の有無などについて正面から論じていない。地方公共団体の名誉権享有主体性を限定的ながら認める趣旨であるとも解されるが、理由なども一切あげられていない。これは、訴訟当事者の主張の仕方によったものではないかと思われるが、判旨は原則的否定説を採用したものとも(この説であれば、肯定されるのは非常に例外的な場合に限られることとなる)、制限的肯定説を採用したものとも(原則的否定説にかなり近いものである)、いずれにも解することができよう。
地方公共団体の首長個人の名誉毀損の成立と地方公共団体の名誉毀損の成立とを区別する点は、一般的にみて妥当であろう。本件の場合は、両者を区別しやすい事例でもあり、X2に対する名誉毀損が認められるとしても、事案の性質上、同時にX1に対する名誉毀損が成立するとは考えにくいし、あえてそのようなものを考える必要もなかろう。
(二)新潟地高田支判平成13年2月28日判例自治218号18頁
〔事案〕 Y1(東京放送)は、1997(平成9)年9月21日の18時から「JNN報道特集」を放送した。この日の番組は、「公共事業の闇…封印された疑惑を発掘」と題され、上越地域広域行政組合がX(上越市)に委託して発注した「南クリーンセンター施設解体撤去工事」に不正があるという趣旨の内容であった。これに対し、Xは、この番組の内容が虚偽であり、Xの社会的評価を著しく低下させたとして、また、同番組のキャスターY3が番組内でXを「農業と公共事業に依存するまち」と評価したこともXの社会的評価を著しく低下させたとして、Y1、Y1の取締役報道局長であるY2およびY3に対し、損害賠償と謝罪広告の掲載、さらに訂正放送を求めて出訴した(22)。請求棄却。
〔判旨〕 「地方公共団体は国と並んで公権力行使の主体ではあるが、その公権力は法律の定める範囲内(憲法94条)でのみ行使されるものであり、公権力行使の主体としては制限的なもので、国と同視することはでき」ず、市町村の「間には自ずから評価の優劣が生じうるものというべきである。この点も、国内に関する限り一つしか存在し得ない国とは異なる」。このため、「地方公共団体にも社会的な評価はあるものであり、その評価を低下させる行為(名誉毀損と呼ぶかは用語の問題と考える)は観念できるものと考える」が、「地方公共団体が国と並ぶ公権力行使の主体であること、国民主権の下、わが国においては民主主義の原理で地方公共団体の運営が行われていることから、地方公共団体に名誉毀損が成立しうる範囲は法人を含む私人とは大いに異なる」。
「地方公共団体の首長と議員、さらに地方公共団体の運営方法は不断の批判の対象であ」り、「民主主義の原理の下、首長に対する批判、地方公共団体の行政運営に対する批判は、当該地方公共団体そのものに対する批判とは別個のものと解するのが相当であ」る。
本件番組の内容は市長やXの行政運営に対する疑惑であり、「本件番組は基本的には原告に対する批判ではなく」市長、およびXの行政運営に対する批判であって、市長個人やXの職員個人に対する「名誉毀損となることはあっても、原告に対する名誉毀損とはならない」。また、Y3の評価も「事実として摘示されているのではな」いことは明らかであり、損害賠償、さらに謝罪広告を認めなければならないほどの被害や損害は認められない。
〔検討〕 本判決は、正面から地方公共団体の名誉権享有主体性を認めている。その理由としてあげられているのが、公権力の主体としての性格についての憲法および法律による制限であり、「社会的評価」の低下に対する措置を取る際の財政力の格差である。このうち、財政力の格差は、情報発信の能力などや損害回復措置に関してあげられる副次的な理由であり、本質は公権力の主体としての性格について求められるべきであろう。
前章において述べたように、地方公共団体が有する公権力の行使の主体としての側面は、まず地域的に限定される。区域外において地方公共団体が私法上の権利・義務の主体となることは想定されえようが、公権力の行使の主体となることはない。そして、民主主義的な地方自治の理念も、まずは地方公共団体の区域内において実現されるべきものであり、一地方公共団体の行政運営、そして首長や議員の行動は、住民により絶えず監視と批判、そして統制の対象となるべきである。しかし、その地方公共団体の区域の外から、選挙などを通じて統制を行うことはできないし、行政運営であれ首長や議員の行動であれ、結局はその地方公共団体の住民による評価に委ねざるをえない。他方、外からの監視や批判は可能であり、その意味において、地方公共団体も何らかの形で社会的な評価を受けることになる。この社会的評価すなわち名誉ということにはならないが(本判決がやや控え気味に述べているのは、そのためであろう)、前章において述べた例などに該当する場合については、名誉と表現してよいものと思われる(22)。
一方、本判決は、地方公共団体の名誉権享有主体性が認められる範囲について私人・私法人とは異なると解している。その意味は必ずしも明らかではないが、公権力行使の主体としての側面に関連する場合には、地方公共団体の名誉権侵害が問題となりえないという判断を示したものと解しうる。
そして、前掲(一)判決と同様に、地方公共団体の首長個人の名誉毀損の成立と地方公共団体の名誉毀損の成立とを区別する。(一)判決においては根拠が述べられていなかったが、本判決は民主主義の原理を根拠としてあげている。主張の理由付けとしては不十分な嫌いもあるが、日常の行政運営などは首長の指揮監督の下にあり、首長が最終的な責任を負うこと、地方公共団体内において行政運営などが住民の批判と監視の下に置かれるべきであることに鑑みれば、この区別は一般論としては妥当であろう(議員、議会、執行機関の職員についても同様である)。
しかし、この区別が具体的にどこまで可能であるのかという問題は残る。阿部満氏は、本件番組中の評価に関連して「地方公共団体の行政運営と関連する事柄であると地方公共団体及びその地域の社会的評価を低下させ住民の間接的利益を損なうような言説で、仮に名誉毀損の対象となるならば真実性の証明や公正な論評の適用が受けられないようなものについても、地方公共団体に対して名誉毀損が成立する余地がないことになる」と述べ、「批判の言説が地方公共団体及びその地域の社会的評価を低下させ、かつ当該言説が合理的な根拠を欠く場合、個々の住民に及ぶ不利益を回避するため、地方公共団体による名誉回復措置の請求及び損害賠償請求を認めるべきではないだろうか」と述べている(23)。
たしかに、本件のY3による番組中の評価は「真実性の証明や公正な論評の適用が受けられない」ものであると言える。そして、本件を離れて一般論として述べるならば、地方公共団体に対する批判が住民にも何らかの不利益を及ぼすことも想定しえない訳ではない。
しかし、本件の場合、番組が公共事業に関連する諸問題の一事例としてXの領域における諸事件を扱ったと考えることもでき、同種の問題が日本全国に散見されることに鑑みれば、評価はXのみを対象とするものではないとも言いうる(但し、私は本件番組を視聴していないので、確言はできない)。そうでないとしても、事実認定から判断すれば、本件における評価は、X、さらにその住民に何らかの具体的な不利益をもたらしうるものとは考えにくく、むしろ住民に注意を喚起するなどの効果があることも考えられるため、本判決が述べるように、損害賠償、さらに謝罪広告を認めなければならないほどの被害や損害は認められないと言えるであろう(もっとも、本判決は「テレビ番組としては大いに問題があったもの」と批判しているが)。
また、本件のような評価は、同種の問題につき、各種の報道番組や出版物などにおいてよく用いられる(24)。阿部氏は「言説が廃棄物処理場のそばの池で奇形魚が見つかったという噂に基づき他の事実や科学的データ等に基づかず処分場での不適正処理のおそれと周辺への汚染の拡大の可能性を強調し、当該地方公共団体が何らの措置を執らない産廃のまちであると締めくくるような軽率なものであった場合、行政運営についての批判であるからという理由で地方公共団体が裁判で名誉回復のための措置を請求できないとするのは、不合理ではないだろうか」と述べるが(25)、ここまで具体的な評価がなされるならば、住民の人格権、財産権などを侵害しうるような表現であると考えられるため、「真実性の証明や公正な論評の適用が受けられないようなもの」とは言えないものと思われる。これに対し、本件の場合、阿部氏があげる例ほど具体的な内容ではなく、前述のように住民の人格権や財産権の侵害に至るものとは考えにくい。むしろ、本件の程度の評価も許されないとすれば、報道に対する過度な萎縮効果をもたらしかねない。
以上より、本判決は妥当なものと解される。
(三)東京高判平成15年2月19日判時1825号75頁
〔事案〕 前掲(二)判決の控訴審判決である。Xが控訴したが、棄却された(判決は確定している)。本件番組の内容に関する判断は、基本的に前掲(二)判決と同様であるため(26)、以下は名誉権に関する部分のみを取りあげる。
〔判旨〕 「地方公共団体は、一定の地域とその住民とを構成要素とする団体であり、住民自治の原理も、また、その公権力の行使もこの団体を構成する一定の地域と住民との関係で作用し、その効力を及ぼすにとどまり、他の地域やその住民に直接作用するものではな」く、地方公共団体の「社会的評価を保護すべき必要性があるのみならず、その合理性も認められるのであ」り、名誉権の侵害を理由とする損害賠償等の請求の余地が「全くないということはでき」ない。「特に他の地方公共団体やその住民等の関係では、公権力の主体としての性格は後退し、このような総体としての地方公共団体としての性格が濃厚に表れるものである上、各地方公共団体において行使される公権力も、その内容や形態・程度、更にはこれが作用する範囲等が限られているのであって、国の場合と同様に考えることはできない。」(太字は引用者による。)
地方公共団体に対する社会的評価の対象は、地域、住民などの構成要素が一体となった総体としての地方公共団体そのものであり、「行政機関や首長等個人に対する表現行為は、(中略)同時に当該地方公共団体の社会的評価を現に低下させるものでない限り、地方公共団体に対する名誉毀損には当たらない」。
〔検討〕 本判決も、正面から地方公共団体の名誉権享有主体性を認めており、公権力の主体としての性格に関して(二)判決よりも明確に述べている。また、「他の地方公共団体やその住民等の関係では、公権力の主体としての性格は後退」云々の部分は、第四章において取り上げる判決との関係において重要である(27)。そして、本判決も、地方公共団体の首長個人の名誉毀損の成立と地方公共団体の名誉毀損の成立とを区別する。これまで述べてきたところにより、本判決も妥当なものであると解する。
第四章 名誉権をめぐる判例(2) 地方公共団体対地方公共団体
これまで、地方公共団体の名誉権を私人・私法人との関係において考察してきた。これとは別に、一地方公共団体の名誉権が、国、他の地方公共団体などの公法人との関係において認められるか否か、認められるとすればどの程度までなのかという問題がある。
現在のところ、この問題が正面から論じられたのは日田市対別府市事件のみであり、大分地判平成14年11月19日判タ1139号166頁が判断を行っている。
〔事案〕 この事案については、既に様々な論考において紹介されているが、本稿においても概要を述べておく(28)。
訴外会社Aは、1996(平成8)年7月、大分県の日田市(原告)に別府競輪場の場外車券売場(サテライト日田)を設置する計画を別府市に示した。同年九月、この計画が日田市により確認され、日田市民による反対運動が起こり(29)、日田市議会も設置反対の決議を行った。しかし、翌年7月、Aは設置許可の申請をした。設置計画は一時凍結されたようであるが、2000年に再浮上し、同年6月7日、当時の通商産業大臣により設置許可がなされた。これを受け、日田市は別府市に設置断念を何度も申し入れるなどの活動を行ったが、別府市は設置推進の立場を崩さず、両市の対立は深まった。
このような状況の中、別府市は広報誌「市報べっぷ」平成12年11月号を刊行し、別府競輪の特集記事を掲載した。その内容は競輪事業の必要性を訴えるものとなっており、同7頁にはサテライトについての「別府市の考え方」として3項目があげられていたが、その中の「A場外車券売場の通産大臣の設置許可まで、『サテライト日田』の場合3年を要した。反対するのであれば、日田市としては、本来、設置許可が出る前に、許可権者である通産大臣に対して明確な反対の意思表示をすべきだったのではないか」について、日田市が「事実と異なる」として異議を申し立てた。日田市は別府市に対して、二度、記事の訂正を求める内容証明郵便を送ったが、別府市は応じなかった。そこで、日田市は、2001年2月5日、別府市に対し、特集記事の訂正(実質的には謝罪文の掲載)を求める訴訟を提起した。
本件の争点は、@地方公共団体である日田市は名誉権の享有主体たりうるか、A本件特集記事の記述が日田市の名誉を毀損するか、B本件特集記事の記述の真実性、および別府市の故意・過失の有無、およびC本件特集記事の訂正(名誉回復措置)の必要性の四点である。
〔判旨〕 日田市勝訴。
争点@について:地方公共団体は公法人であるが、「国内に多数存在し、行政目的のためになされる活動等は種々異なり、これを含めた評価の対象となり得るものであるから、それ自体一定の社会的評価を有しているし、取引主体ともなって社会的活動を行うについては、その社会的評価が基礎になっていることは私法人の場合と同様であるから、名誉権の享有主体性が認められ」、「公法分野において公権力行使の主体である一方、私法分野においては私権の享有主体でありうる以上、私人と同様に名誉権に保護が図られるべきである」。さらに、本件の場合、日田市も別府市も地方公共団体であるから「国民主権ないし民主主義の観点から被告の他の地方公共団体に対する批判・論評を当該地方公共団体の住民その他国民による批判・論評と同列に扱うことはできない」。
争点Aについて:本件特集記事は「原告が本件設置許可前に許可権者である通産大臣に対して明確な反対の意思表示をすべきであったのに同設置許可後に初めて明確な反対意思表示をした趣旨の記載であり、原告の反対の意思表示が時機に遅れて適正でないとの印象を与えるものであるから、本件記述は原告の社会的評価を低下させるものと認められ」る。
争点Bについて:本件特集記事は「『設置許可が出る前に』意思表示をしていないと記述しているに過ぎず、その始期については何ら限定されていない」。本件において、原告は「本件設置許可申請の前後を通じ、通産大臣に対して、書面によるか又は下部機関である九州通産局への口頭の申し入れを通じて、明確な反対の意思表示をしていた」。また、「本件記述がされた当時、原告が実際には本件設置許可に先立って、同設置許可申請の前後を通じ、通産大臣に対して、書面によるか又は下部機関である九州通産局への口頭の申入れを通じて、明確な反対の意思表示をしていたことを被告は容易に認識し得たと認定でき、本件記述による名誉毀損について少なくとも重過失がある」。
争点Cについて:サテライト日田問題についての日田市民の関心が高いこと、および「社会的信頼性の高い発行物」である市報に本件特集記事が掲載されて「原告の社会的評価は大きく低下した」ことからすれば「本件において原告の社会的評価を回復させるための措置」が必要である。
〔検討〕 本件の特徴は、本稿において扱った他の事例と異なり、広報誌に掲載された記事をめぐる地方公共団体間の対立(いわゆる「自治体間対立」)である。その点において、地方公共団体と私人・私法人との間の争いとは性質を異にする。
(一)争点@について
本件においても、最大の争点は@であった。本件判決は、前述のように、地方公共団体が公法人であることを前提にしつつ、私法上の権利主体ともなりうることに着目し、地方公共団体の名誉権享有主体性を肯定する。
本件の場合は日田市も別府市も同格の地方公共団体であるから、私人と地方公共団体との関係と全く同様に考えることには無理がある。被告に私人と同一の法的主体性を認め、やはり公権力の主体たる性格を有する他の地方公共団体に対する批判の自由など表現の自由一般を認めることはできないであろう。
ただ、本件判決において、地方公共団体が名誉権享有主体性を認められるとしても、それがいかなる場合におけるものであるのか、という点は不明確である。判決を読む限り、地方公共団体の公権力の行使主体としての性格と「取引主体」としての性格が列挙されていることから、名誉権享有主体性は「取引主体」としての性格が問題となる場合に認められると理解することもできる。しかし、本件の場合は、原告にも被告にも「取引主体」としての性格を認め難いため、判決が何処までを射程距離とするのかが不透明である。
本件判決は、地方公共団体の「行政目的のためになされる活動等は種々異なり、これを含めた評価の対象となり得るものであるから、それ自体一定の社会的評価を有している」と述べており、公権力の行使主体としての性格が問題になる場合においても名誉権享有主体性を認められると判断しているようにも読解しうる。本件事案の性質上、両者の区別をする必要が認められなかったのかもしれないが、それは事案の特殊性によるものであるから、名誉権享有主体性が認められる範囲について、より一般的かつ明確な判断が求められるものと思われる。公権力行使の主体としての一面に関連する場合に、特別の事情が認められない限りは地方公共団体の名誉権侵害が問題とされるべきではない。その点においては、不明確さが残るとはいえ前章(二)および(三)判決のほうが妥当であろう。
また、地方公共団体の名誉を毀損した者が私人であるのか、本件のように他の地方公共団体であるのかにより、地方公共団体の名誉権享有主体性についての判断は分かれうるはずである。本件判決においては、その点も明確にされていない。
本件のように、場外車券売場などの設置に反対する地方公共団体の意思表示などは、公権力の行使としての性格を有しておらず、周辺住民による反対の意思表示と同様の性格であると考えられる。他方、市報の編集や発行は、それ自体が事実行為であり、公権力の行使としての性格を有するものではない。
但し、広報誌は、いかなる編集形態によるものであれ、地方公共団体の公式見解などを住民に示すものであり(30)、自由な表現の場ではない。仮に広報誌の編集の自由、記事作成の自由などが存在するとしても、それらは相当に制約されたものでしかない。まして、他の地方公共団体に対して「批判・論評する自由」は私人・私法人に対して認められるものであって、地方公共団体に対しても同程度の保障が認められると解するべきではない。
以上のように考えるならば、本件判決の論旨は、地方公共団体の公権力の行使主体としての性格が問題となっていない場合であり、かつ、他の地方公共団体の広報誌などにより真実と相違する報道がなされた場合、掲載記事が批判の領域にあるとは言い難い表現や内容である場合などについてのみ妥当する、と考えるべきである。
(二)争点Aについて
当然ながら、争点Aは@と密接な関係にある。従って、基本的には同旨が妥当する。本判決もその点を確認している。
ここで問題となるのは、名誉の保護と表現の自由との比較考量であろう。地方公共団体に名誉権享有主体性が認められるとしても、名誉の保護と表現の自由とが拮抗する関係にあり、名誉の保護が表現の自由に対する制約をむやみに制約しないように限定的に解する必要があるからである。地方公共団体の名誉の保護と私人・私法人の表現の自由との関係に関する事件であるならば、前述のように私人・私法人の表現の自由を最大限に尊重するよう、優先すべきである。しかし、本件の場合、地方公共団体の広報誌に掲載された記事の内容が争われたのであるから、やはり前述のように、表現の自由を最大限に尊重すべき理由は存在しないものと思われる。
その上で、判決は、「地方公共団体の行政運営に対する社会的評価」は「地方公共団体自身の社会的評価」の区別について疑問を提示しているが、一般論として妥当性があるか、疑問が残る。たしかに、前述のように、両者を厳密に区別することが難しい場合が存在しうる。また、本件の事例は両者の区別が問題とならないものであり、公共事業にまつわる不正入札や汚職などが問題とされたものでもないので、峻別の必要性が認められなかったのであろう。しかし、本判決の趣旨を一般論として認めることは妥当でない。あくまでも、本件の特殊性に鑑みての判断であると解すべきである。但し、他の地方公共団体による「地方公共団体の行政運営に対する社会的評価」が「地方公共団体自身の社会的評価」と重なることは少なくないものと思われる。
(三)争点Bについて
別府市は、本件特集記事における論評が「同申請後3年間の行動についての認識とそれをふまえた批判である」と述べ、日田市の要求は過大な要求であると主張していた。しかし、本判決は別府市の主張を退けている。
本件特集記事を読む限り、問題となった箇所から、別府市が主張するように1997年1月13日の要望書の提出などが論評されていないと読むことには無理がある。申請から許可まで3年間を要したということと、その間に反対運動がなされたか否かということとは別の事柄であり、市報の記事には「その間に」というような文言もないので、別府市が裁判で主張した記事の意図や意味を記事から読み取ることはできない。そればかりか、日田市が提出した証拠によると、別府市が主張している期間にも原告による反対の意思表示がなされていたことが明示されているので、少なくとも別府市に重過失が認められうるであろう(31)。
(四)争点Cについて
名誉毀損に関する訴訟において名誉権の侵害が認められたからと言って、直ちに損害賠償や名誉回復のための措置の請求が認められる訳ではない。とくに、本件の場合、日田市が受けた名誉毀損の具体的な損害を(例えば金額により)評価することは事実上不可能であり、回復措置が必要か否かについては慎重な判断が求められるであろう。
日田市は、たしかに広報ひた号外(2001年3月15日付)にその主張を掲載しており、このことについては新聞報道もなされている。しかし、地方公共団体の広報誌は、基本的に当該市町村の住民を対象とするものであり、発行地域および部数も基本的にはその範囲に限定される(32)。そのため、域外に居住する住民が当該市町村の広報を参照しうる機会は非常に限定されているという点において、テレビ番組などと異なる。仮に、広報誌の記事が新聞などにより報道されたとしても(本件については、実際に新聞などにより報道された)、それは概要でしかなく、何らかの編集が加えられることもあろう。そのため、被告の領域に居住する住民の範囲において原告の名誉が毀損されたとしても、原告が被告の領域内において完全なる反論などをなしうる機会がない限り、原告の広報誌における記事などにより名誉を回復しうるか否かは疑問である(33) (34)。さらに述べるならば、本件が前章(二)および(三)判決の事案と異なる点は、サテライト日田という、実際に設置が予定されている施設に対する反対運動に関する論評がなされたことである。本件の場合、損害賠償や名誉回復のための措置の請求が認められないとするならば、日田市の取り組みは勿論、日田市民(市内17団体)による反対運動に直接的な打撃が加えられ、住民に具体的な不利益をもたらしうるものと考えられる。のみならず、同種の問題が全国にみられることから、他所の公営競技の場外券売場設置反対運動に少なからぬ影響が出ることも予想された(35)。
以上から、結局、本件判決の説示は妥当であると考えられる。
第五章 おわりに
本稿を閉じるにあたり、前章までにおける検討の結果をまとめておくこととする。もとより、第一章において述べたように本稿は試論の域を出ておらず、また、この問題に関する判決が少ないこともあって、なお検討を重ねなければならないことは承知の上である。
(一)地方公共団体の人権享有主体性については、制限的肯定説によるのが妥当である。すなわち、地方公共団体が公権力の主体として行為をなす場合には人権享有主体性は否定されるが、そうでない場合には肯定されるべきである。但し、肯定されるとしても、私人・私法人と同程度の人権享有主体性を認めることは難しい。
(二)制限的肯定説に立つならば、地方公共団体にも名誉権享有主体性が認められうるが、私人・私法人による毀損がありうるのかという問題と、国、別の地方公共団体などの公法人による毀損がありうるのかという問題を分けて考察しなければならない。また、地方公共団体そのものの名誉権享有主体性と、地方公共団体の首長、議員、職員などの名誉権享有主体性とは区別しなければならない。
(三)私人・私法人との関係において、地方公共団体の名誉権享有主体性は、私人・私法人が享有する表現の自由の保障と抵触すること、地方自治が民主主義の原理の下に置かれ、地方公共団体の日常の行政運営などは首長の指揮監督の下に首長が最終的な責任を負い、地方公共団体内において行政運営などが住民の批判と監視の下に置かれるべきであることから、住民に何らかの具体的な不利益の危険が生じうるような特別の事情が存在しない限りは否定されるべきである。
(四)国、他の地方公共団体などの公法人との関係において、地方公共団体の公権力の行使主体としての性格が問題となっていない場合には、地方公共団体の名誉権享有主体性は認められるべきである。国や公法人には表現の自由が認められない、または認められるとしても私人・私法人に比して相当に制約されるからである。
なお、地方公共団体の人権享有主体性との関連において、日田市対経済産業大臣訴訟において提唱された「まちづくり権」の問題がある。サテライト日田問題に取り組んでいた者としては、いわば宿題として「まちづくり権」に関して何らかの見解を示すべきものと考えてはいる。しかし、これを十分な形において示すには、憲法論を初めとして広範囲にわたる検証を必要とする。そのため、「まちづくり権」の有無、内容などについての検討は、機会を改めて行うこととしたい。
(1)
その典型的な例とされるのが、会計法第30条と民法第177条、建築基準法第65条と民法第234条などである。この点を含め、芝池義一『行政法総論講義』〔第4版〕(2001年、有斐閣)19頁、大橋洋一『行政法』〔第2版〕(2004年、有斐閣)70頁、宇賀克也『行政法概説T行政法総論』(2004年、有斐閣)54頁、塩野宏『行政法T』〔第四版〕(2005年、有斐閣)25頁、原田尚彦『行政法要論』〔全訂第六版〕(2005年、学陽書房)17頁、室井力編『新現代行政法入門(1)』〔補訂版〕(2005年、法律文化社)49頁[神長勲担当]、などを参照。(2) この問題をとくに詳細に論じるものの例として、岡田雅夫「行政主体論」雄川一郎・塩野宏・園部逸夫編『現代行政法大系7行政組織』(1985年、有斐閣)17頁、48頁、および同論文に掲記される諸論考を参照。なお、公法人と私法人との区別を肯定するとしても、質的な、または絶対的な区別まで認めるものではない。このことについては、既に園部敏「公法人と私法人」田中二郎・原龍之介・柳瀬良幹編『行政法講座第2巻行政法の基礎理論』(1964年、有斐閣)34頁などにおいて指摘されている。
(3) 本来であれば、これらを厳格に区別すべきところであるが、本稿は基本的人権と基本権との区別を主題とするものではないし、主題の設定において、これらの区別はそれほど大きな問題とも要素ともならないと思われる。そのため、以下においてはすべて「人権」と表記している。
(4) もっとも、民法学が私法人(または団体)の名誉既存を本格的に議論の対象としたのは、最一小判昭和39年1月28日民集18巻1号136頁(およびその下級審判決)がきっかけであるという。森泉章「法人の名誉毀損について」民商法雑誌54巻1号3頁、同「法人・集団の人格権」有泉亨監修・伊藤正己編『現代損害賠償法講座2』(1972年、日本評論社)115頁などを参照。
(5) なお、本稿においては、最大判昭和61年6月11日民集40巻4号872頁、および最三小判平成9年5月27日民集51巻5号2024頁に従い、名誉を「人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価」と定義しておく。
(6) 拙稿「サテライト日田をめぐる自治体間対立と条例―
(7)
(8) 2001年2月1日、
(9) なお、本稿においては、諸外国の事例や文献を参照し、検討を加えるという作業を敢えて行っていない。諸外国における地方公共団体の名誉権、さらに人権一般の享有主体性については、機会を改めて論じることとしたい。
(10) 辻村みよ子『憲法』〔第2版〕(2004年、日本評論社)168頁(さらに、樋口陽一『憲法』(1998年、創文社)174頁などが参照されている)。
(11) もっとも、八幡製鉄事件最高裁判決(最大判昭和45年6月24日民集24巻6号625頁)のように、精神的自由権について極度に広く保障を認めることには問題がある。同様のことは、三菱樹脂事件最高裁判決(最大判昭和48年12月12日民集27巻11号1536頁)についても妥当しえよう。
(12) 松本英昭『要説地方自治法』〔第4次改訂版〕(2005年、ぎょうせい)62頁は、「地方公共団体は、その目的を達成するため、国から公の機能を果たすべきことを認められた主体としての地位を有する公法人たる団体である」と述べている(傍点は省略)。
(13) この整理は、長尾一紘『日本国憲法』〔第3版〕(1997年、世界思想社)102頁に基づく。但し、同書において「公権力の主体としての側面については否定し、私経済の主体としての側面については肯定する見解」と表現されるものを、本稿において制限的肯定説としている。
(14) 長尾・前掲書102頁は、端的にではあるが「基本権本来の意義と作用に留意するならば」原則的否定説が妥当であると述べる。また、森泉・前掲(民商法雑誌)9頁は、アメリカ法において、地方公共団体などの公法人について「名誉毀損は成立しないとする判例がある」としてCity of Chicago vs Tribute Co., 139 N. E. 86 (1923)をあげており、同12頁は、フランス法において地方公共団体などの公法人について名誉毀損の成立を認めた判決を紹介している(日本法については述べられていない)。
なお、松井茂記『日本国憲法』〔第2版〕(2002年、有斐閣)310頁註(5)は、公法人は原則として政府の機関として基本的人権を享有しない。しかし、中には政府との関係で自律性が認められ、基本的人権の享有を認めるべき場合もある。とりわけ国立大学や日本放送協会などは、その例であろう」と述べる。
(15) 阿部満「
(16) 木佐茂男編『〈まちづくり権〉への挑戦―
(17) 最一小判昭和59年12月13日民集38巻12号1411頁、最三小判昭和49年2月5日民集28巻1号1頁などを参照。
(18)
(19) もっとも、地方公共団体の人格権は、私人の人格権に比して尊重の程度が低くなることも否定できない。地方公共団体の人格権全般が最も強く問題として現われうるのは、市町村合併に際してであろう。2004(平成16)年3月末日に失効した旧市町村合併特例法、ならびに第27次地方制度調査会最終答申および現行市町村合併特例法については、憲法第92条に違反する疑いがあることが指摘されている。拙稿「市町村合併/自治・分権から眺めた市町村合併」月刊地方自治職員研修臨時増刊75(2004年3月号増刊)93頁、および市橋克也=三橋良士明=白藤博行「基礎的自治体と都道府県論―地方制度調査会『中間報告』をふまえて―」季刊自治と分権第13号(2003年)24頁における市橋氏の発言を参照。
(20) 国による地方公共団体への批判については、そもそも、国自体の表現の自由を想定すべきではなかろう。地方公共団体など公法人による地方公共団体への批判については、表現の自由を想定しえなくもないが、基本的にはやはり否定すべきであろう。
(21) なお、阿部・前掲118頁によると、この日に放送された番組の内容についてはいくつかの訴訟が提起されている。
(22) 注(5)を参照。
(23) 阿部・前掲118頁。
(24) 松井茂記『マス・メディア法』〔第3版〕(2003年、日本評論社)が本件訴訟について「政治批判を封じるものであって、端的に憲法二一条に反し許されないもの」と評価するのは、この点に関わるものであろう。
(25) 阿部・前掲118頁。
(26) 但し、東京高等裁判所は、本判決において「付言」を行い、本件番組の「報道内容に一部誤りがあり、また、表現において適切さを欠く点があった」ことなどをあげて「特に報道特集としての本件番組の取材の在り方等に全く問題がなかったということができるか、なお慎重な検討と十分な反省を要するであろう」と指摘している。また、Y3のコメントについても「はなはだ軽率であり、その表現において不適切なものであったといわざるを得ない」と批判している。
(27) 判決文において明示されていないので断言はできないが、第四章において検討を加えた大分地裁平成14年11月19日判決の影響があるのではないかと思われる。少なくとも、同判決を想起させる内容である。
(28) 前掲拙稿@〜Bの他、薄井・前掲201頁註(3)に掲記されている諸論考を参照。しかし、
(29) 2000年12月9日には、
(30) 広島地三次支判平成5年3月29日判時1479号83頁も同旨を述べる。なお、高知地判昭和60年12月23日判時1200号127頁も参照。
(31) 拙稿B28頁は、訴訟において原告が提出した証拠の一部を紹介している。
(32) 勿論、完全に区域内に限定されるという訳ではない。
(33) この点について比較すべき判決として、東京地八王子支判平成13年10月11日判例集未登載(TKC法律情報データベース文献番号28071562)がある。事案は、
判決は、地方公共団体に関して「虚偽の事実が流布されたとしても、それによって存立そのものが脅かされる事態は想定しにくく、(中略)司法の場において、虚偽の表現行為を図った者に対し、信用の回復をするのに必要な処分を求めることをしなくとも、地方公共団体自体が発行する公報などで自ら虚偽の事実を否定することによって信用の回復を図る方法も有している」と述べている。基本的には同市内における問題として処理したものであると考えられるが、Yがホームページによって問題を広く国民に伝えたことを考慮すれば、広報誌によって信用の回復を図る方法は十分でないと思われる(但し、次注を参照)。
(34) もっとも、現在、地方公共団体の広報の手段は広報誌などに限定されるものではない。とくに、地方公共団体のホームページは、区域の内外を問わず、政策、行政運営などに関する情報を広く国民または住民に伝えるために存在すると言え、これらについて地方公共団体が自らの意見などを述べる機会ともなりうる。また、サテライト日田問題について述べるならば、当時
なお、本稿の主題とは直接の関係を有しないが、私は、「インターネットによる広報を考える―地方自治の視点から―」月刊「広報」2002年2月号(597号)40頁において、地方公共団体の広報の一手段としてホームページの意義、課題、可能性を考察した(サテライト日田問題を念頭に置いている部分もある)。
(35) 当時、九州においては福岡ドーム内場外馬券売場設置反対運動やサテライト博多設置反対運動などが行われていた。また、西新宿場外車券売場設置反対運動も展開されており、サテライト日田設置反対運動に少なからぬ影響を及ぼした。